王子の黒い目は、奇妙なほど柔らかくほそめられた。
ウイルス。
全身が痺れる。
(正体を言い当てられた――!)
それがどういう意味か、頭より先に体が理解した。
デリックは鋭く息を呑む。
王子のこめかみのすぐ側に、鋭い牙の生え揃ったのあぎとがみえた。
―――まてッ!
叫びは声になる前に、風にさらわれる。
王子が滑らかに体勢を立て直し、飛び退る。
鋭く抜き去られた剣が、襲い掛かってきた猟犬の牙を受けた。
ちか、と瞬くような殺気のやり取り。
デリックは王子が着地したのと同時に体をおこした。
ベッドの側に、雪のように白い猟犬がよりそう。
低い唸りを上げながら、王子を威嚇している。
「おちつけ」
さかたつ毛をなだめるように、白い指が犬の上をすべる。
「まだなにも起きてない」
猟犬は、不満気に低く唸ると、唸り声をおさめた。
しかしその目は、油断なく王子をみつめている。
この空間はデリックの『巣』だ。
デリック以外の何者も存在しない真っ白な世界。
触れるものすべてがデリック自身でありデリックが『外に出ようとしない限り』絶対的な味方だ。
すべてがデリックの意思とは関係なくとも、デリックのために働く。
この猟犬とて例外ではない。
否、そのものだといってもいい。
―――つまり。
デリックのビビッドピンクの瞳がどこかけだるげに王子を見た。
一見すれば眠そうに見えるのに、その奥にちかちか瞬く金色の光にきがつけば、けっしてそうとは見えない。
獲物を見つけた猫科の動物のようだ。
油断も、隙もきえうせた。
今にも牙をむきそうな口から、限りなく低い、低い声が漏れた。
「……そうか」
そこびえのするような一瞬の沈黙。
「てめぇ、セキュリティソフトか」
「ご名答」
王子は剣を払い、刃こぼれをたしかめると、再び腰の鞘にさしもどした。
「きみの犬かい?話をしている途中におそいかかってくるなんて、躾がなってないね」
「おれのことを守ろうとしたんだろ」
犬はデリックにこびる様子もなく、じいっと王子を威嚇している。
「だまし討ちみたいな卑怯な真似しねぇだけ、躾のなったいい犬だ」
「だます?だれが」
「てめぇ以外の誰がいる。人畜無害な顔して近づいてきやがって」
油断したところを、腰の剣でぶすりとやるつもりだったにちがいない。
王子は心外だ、とおおげさに目を瞠った。
「俺はすこし、おまえと話がしたかっただけだよ」
「はなし。ウイルスとセキュリティがのん気に世間話か。きいたこともねぇぞ」
「たしかに、今まで意思疎通の叶ったウイルスはいなかった」
王子は潔くみとめた。
しかし、これまでだって節足動物じみたのや、繊毛運動にいそがしい芋虫型、ぬめぬめした植物みたいなのを相手に『こんにちは』と会話の糸口をさがしてみたことのある王子である。
まあ、完全に物珍しさだったが。
それでも言葉がつうじる相手にだって、ほとんどまともに会話をしてこなかったデリックは、奇妙なものを見る目で王子を見た。
「……おまえ、インストールされてひと月なんだよな?」
「正確には25日だけど」
「どっかぶっ壊れてるか、インストールし忘れたかしたんじゃねぇか」
デリックとしては、ただの皮肉のつもりだった。
しかし、王子はふと目を細めると、微笑んだまま、少しの黙った。
「そうかもしれない」
王子はなにもかたらない微笑を浮かべたままだ。
「おれもそれをうたがっている」
「……」
デリックはベッドからたちあがり、傍のチェアにかけてあったスーツの上着を羽織った。
ショッキングピンクのシャツに、真っ白なスーツ。
白とピンク、鬣のような金髪。
耳に吸い付くようになじんだヘッドホンの先を、ベッドの側においてあったレコードプレイヤーから引き抜いて、腰にひっかけてある小型音楽プレイヤーにつっこんだ。
レコードプレイヤーは文字通り音楽を再生するもので、こちらの小型音楽プレイヤーは、みせかけだけの別の機械、――外付けのメモリーのようなものだ。
戦闘は、容量を食う。
王子が、しごく真面目な顔でいった。
「はでだね。おまえの趣味?」
「この衣服は、臨也が初期設定したそのままのものだ。…が、俺は気に入ってる」
「なるほど。目がつぶれそうだ」
喧嘩を売っているのかと思うほど単純明快な感想だった。
デリックは胸ポケットにはいっていたタバコを取り出し、口にくわえた。
火をつける。
吐き出した煙が、空間にとけ、わずかに視界を白く染めた。
「……で」
「うん」
「それで終わりか?」
王子が目を瞬く。
デリックは淡々と、温度のない目で王子を見た。
「ここにきて、俺と望みどおり世間話をして、それで、終わりか」
「つまり?」
「ウイルスの首を取りたくねぇのかって話だ」
「とるよ」
とりたい、ではなかった。
「君はマスターに存在が認知されるほどに巨大なシステムをのっとっている。放逐は論外だ」
「なるほど」
オウジサマは、デリックの『臨也に初期設定された』や『臨也に連絡を取る』というのをそういう意味に捉えたらしい。
つまり、デリックというウイルスが、もともと健康だった何らかのシステムをのっとり、こうして王子と会話をし、臨也に『元の機能を装って』いるのだと。
デリックは、くつ、と喉で笑った。
「ならさっさとおっぱじめようぜ。こっちは、早晩死体になるやつと馴れ合うつもりはねぇ」
「そう」
「はやくしねぇと、もともとのこの体の持主、『だいじなシステム』とやらがウイルスにおかされつくして戻れなくなるかもしれないぜ?」
これ以上ごめんだ。
こいつがいなくなれば、また同じように果てしない一人の世界がまっている。
こんなおかしな男はかたづけて、そうそうに静かな海に沈んでしまいたかった。
デリックは、タバコの煙を、意思を込めて、深く吐き出した。
煙は空気に溶けるどころか、むくむくと白さを増し、体積を増し、存在感を益した。
そのまま猟犬の側に丸い塊になったかと思うと、そのかたちがみるみる同じ犬のものになる。
筋を伸ばすように一度おおきく伸びをしたかと思うと、その煙は瞬きをする間に完全に一匹の犬へと変貌していた。
「最後の忠告だ。おとなしく臨也の迎えを待って、普通に出て行く気は?」
「もともとない」
なるほど、この男は自分を殺す相手と話すのが趣味の変態らしい。
デリックは囁くようにいった。

「なら、ちからづくだ」











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