臨也は笑う。
『よしてよ、デリック。君にマスターなんて呼ばれるとおしりがむずむずする』
「そのまま痔で死ね」
『痔じゃないし!さりげに何恐ろしい事いうのこの子!』
デスクワークが主だが、体だってちゃんと動かしてるんだからね、と臨也が何のフォローだかわからない言葉を零す。
「マスター?」
日々也の声は平坦だった。
笑顔だった。
だが目だけが笑ってない。まるで笑ってない。
「まるっきりさっぱりわかりませんので、ぜひ若輩者の俺にもわかるように説明をおねがいできますか」
『ああ、そうだね』
臨也はいかにも面倒くさそうにいった。
『何年か前だったかなぁ、どうしてもあるPC内から情報を盗まなくちゃならなくってさ。その過程でどうしても、ウイルスが必要だったんだ。まあ、本来はこういうやり方は好まないんだけど』
マスターである折原臨也ならば、そのPCを操るものそのものから、人間から情報を搾取する。
じわじわと、裏切りに導くだろう。
けれどそのときは時間が足りなかった。
『どうしても必要だったんだよねぇ。俺を裏切らない、俺に以外情報をもらさない、俺だけに忠実な、それも高性能なウイルスソフトがね』
ただ無限に増えるだけのウイルスではなく、貪欲に情報を盗み、あらゆる状況やセキュリティにその場その場で対応できるウイルス。
進化できるウイルスを臨也は求めた。
そして進化するもの、変化するもの、臨也にとってそれは『人間』だったのだ。
臨也は、当時高度な人格システムを搭載していたボーカロイドシステムに作成したウイルスを組み込んだ進化するウイルスを作るよう専門の業者に依頼をした。
『そこで生まれたのが、サイケデリックドリーム。つまりそこにいるデリックだよ』
デリックは鬱陶しそうに目を細め、日々也は目を瞠る。
「それでは私と…」
『そう、同じだ。君の人格システムは彼らから受け継がれたものだよ』
日々也もまた、人格システムとセキュリティスイートをあわせて作られた存在だ。
常に考え、進化し、発展し、変化し、あらゆるウイルスに万能に対応していけるようにと。
日々也は、何かに気付いた顔になり、――ふと顔をしかめた。
「彼ら……?」
『ああ…』
ふいに、臨也の声に笑みが交じる。
デリックが顔をしかめた。
いやらしい、人をいたぶり反応を楽しむときのあの笑い方。
彼の本性を鏡で映し出したような。
『デリックにはね。サイケデリックドリームの対になる存ざ……』
「臨也」
デリックの声は絶対零度に近かった。
「それ以上いってみろ。お前の秘蔵の情報を世界中にばら撒いてやる」
『ふふ、ごめんごめん。口が滑っちゃった』
下種が。
デリックの呟きに臨也がごめんってばとまるで誠意のない声で謝った。
『でもデリック、そんなことをしたら君のシステムは間違いなく自己破壊しちゃうんだからね。そんな寂しい事言わないでよ』
くつり。
その厭らしい笑い声は、一粒一粒、落ちてきて黒い染みをつくるようだった。
『君が消えるのは耐えがたいよ。たとえ、君がすてられちゃった可愛そうな子で、俺以外悲しむものがいなくてもさ!』
そんなこと、いっちゃダメだよ。
恐らくその意味をまともに理解できていたのは臨也とデリックの二人だった。
しかし、日々也がその言葉を深く考えるより先に、信じられないことが起こった。
しんと動きを止めていた猟犬が突然、反応したように顔を上げ、―――あろうことか、白い矢印に向かって唸りを上げて跳躍し、牙をむいたのだ。
ぎょっとしたのは、日々也もデリックも同じだった。
「マスター!」
日々也が手袋をした右手で『ぱちん!』と指を鳴らす。(本来ならなるはずも無いのだが) その瞬間、足元の白い床が大きな波紋を描き、まるで水面のように波打った。
そこから2本、蹄のある白い足がにゅうと突き出したかと思うと、何かが中空を疾駆する。
まさしく飛ぶような速さだった。
ぎょっと目を瞠るデリックの前で、その白い何か――真っ白な牝馬が、猟犬の腹に頭突きをかました。
きゃん、という悲鳴が上がり、猟犬が弾き飛ばされる。
そのまま地面に叩きつけられたのをみて、思わずデリックが駆け寄った。
ぴくぴくと痙攣している猟犬を恐る恐るなでると、猟犬はピンク色の霧に霧散して、消えうせた。
「……」
デリックは、もう何もない場所でぎゅうと指先をにぎしりめる。
その目が、わずかに何かを堪えるように眇められた。
はっとしたのはそのときだ。
「動くな」
首元に、光る刃先がつきつけられていた。
「オウジサマが不意打ちかよ」
「いま、自分が、なにをしたか解っているのかい」
「俺は何もしてない」
「では飼い犬の責をおうことだね。この世界の王に手を上げた」
ぐ、と刃先が首に食い込もうとした瞬間だ。
『落ち着きなよ。今のは俺が悪いんだよ』
自分に非があるような言い方をしながら、その声色には楽しそうな色がある。
『そんな物騒なものをデリックにつきつけちゃかわいそうだよ』
「マスター」
『剣をひいてあげて、日々也』
「俺の仕事はあなたを守ることです」
『ひびや』
「できません」
『俺が引けといっているのに?』
「……」
逡巡。
日々也は、そうっとデリックの首元から剣をはなした。
はらい、鞘に収める。
ほっと息をついた。
いつ死んでもいいとおもっているくせに、死の気配が遠のいた瞬間、体中からちからがぬけた。
『デリカシーがなかったね。ごめんよデリック』
「……腐って果てろ」
デリックは俯いた。
く、という笑い声とともに『君はあの馬鹿と同じような言葉を使って、同じように反抗する』と楽しそうに言う。
『でも俺に本当の意味で逆らったり、邪魔したり、それこそ憎みきる事も、殺したりも出来ない』
矢印がふいに手のひらツールに成り代わる。
音もなくデリックに近づいてデリックにすりついた。
頬ずりして懐く動物のように。
『ただ口だけだ。何も出来ないかわいそうなデリック。可愛いなあ。かわいいなあ!だから俺はお前の事を消したりする気がまるで起きないんだよ。不必要になってもなお、こうやってお前をここに閉じ込めて生かしておくくらいにはね』
デリックは無言で手のひらツールから視線を外した。
目にぎらぎらと、怒りが灯っている。
けれど、――殺意はない。
そんなデリックを、画面の向こうからゆっくりたのしんだのだろう。
手のひらはひらりと日々也にむいた。
『……と、いうわけで、これを消去することは許可しないよ』
「マスター、ですが…!」
『それにさっきの猟犬はね、あれはデリックの意志に関係ないのさ』
臨也は手のひらツールをもう一つだし、まるでオーバーリアクションをする外国人のように広げてみせた。
肩をすくめるジェスチャー。
『デリックはただ聞きたくない、と思っただけだよ。それにあの猟犬が反応して、勝手に動いただけ』
彼らはただデリックのためだけに存在しデリックのためだけに動く。
その結果だった。
それに多分、結局はマスターを傷つけることなく終わっていたに違いない。
日々也は暫くじっと黙っていたけれど、そっとため息をついた。
「……なるほど。やはりまるで躾が行き届いていない、ということか」
つぶやくと、目を上げてデリックをみつめた。
デリックは無表情にその目を見返す。
「――――マスター」
日々也が、デリックから視線を外さずに言う。
「彼は、今はウイルスとして稼動していないのですね?」
『ん?そうだね』
「ならば彼を俺にください」
時が止まった。
『………ん?』
「は……?」
臨也とデリックが、同時に声を上げる。
堂々としていたのは日々也だけだ。

「彼を俺の騎士にします」

彼はなぜかどうどうと、――とんでもない事をのたまった。
デリックは絶句する。
「先日お話したことを覚えていますか」
臨也はすこし考えるように間をおいた。
そして、あー、と間延びした声でうなづいた。
『そういえば、なんかいってたね。ウイルス対策を強化したいとかなんとか…』
「はい。ウイルスは日々進化しています。前線にいって戦う同志は、みんな俺に従順であり、よく働いてくれます」
いいながら、日々也がぱちんと指を鳴らすと、兎のような小さな生き物が、赤い布張りの戦闘服をきてあらわれた。
戦闘服、といっても、皆、ファンシーな紋章のかかれた垂れ幕のような服だ。
だが、手にもっているのは、槍や剣と、随分物騒である。
「しかし…。彼らはシステムとしては単調で、脆弱です。本来なら俺が守ってやるようなか弱さだ。だからこそ俺には、頭がきれ、腕の立つ片腕…背中を預けられるような生涯の騎士が必要なんです」
『うんうん。なるほどね?わかるよ。俺も』
臨也は同意する。
そして言った。
『で。なんでそれがデリックになるの』
「頭はどうかわかりませんが、強さにおいては俺に勝るとも劣らない」
『デリックにワクチンをうつつもりなのかな?』
デリックは眉をしかめた。
ワクチン?しかし声に出すより先に日々也が答える。
「いいえ」
『なんで?そのほうが君の思うようになるじゃないか』
「それでは面白くないでしょう?」
日々也の口元に品のいい笑みが浮かんだ。
「俺が彼を調教します。ウイルスのまま、彼が彼自身の意思で俺に跪くように」
「な……っ」
とんでもない台詞がきこえた。
ともに絶句したらしい臨也がどこか感心したようにぼやく。
『調教……』
「はい」
『なにその魅力的なフレーズ。たっちゃ…』
「黙れ下種が!」
遮るように声を上げたのは、デリックである。
ついで日々也をふりむいた顔には、珍しく焦りのような驚きが浮かんでいる。
「何いってるんだお前。お前の手下になってウイルスと戦えとでもいうつもりか。無理に決まってんだろっ」
「すこし黙っていなさい。俺はマスターと話をしているんだから」
「黙ってられるか!俺の処遇だ!なんだ調教って!」
日々也が、デリックのほうを振り返る。
その目は、諌めるような威圧感をひめていた。
思わず、デリックは、息を呑む。
「――おまえが周りのものを上手く躾けられないのは、お前自身が躾られるがわだからだよ」
絶句するデリックに、日々也が大またで近づいた。
こつこつ、とヒールが白い床をけり、デリックの目の前でたちどまる。
白い手袋に包まれた指が、デリックの顎にふれる。
撫でるような優しいそれに、デリックが、びくりと体を震わせた。
日々也のほうが背が低い。
それなのに、怯えたようなデリックの様子に、日々也が鳥を愛でるような目で笑った。
「いらないといわれるのは怖いけど、信頼して誰かに自分を預けてしまいたいんだろう。臆病な小鳥みたいだ」
「……っ」
「俺は一度自分のにしたものは誰にもやらない主義なんだよ。だから安心しておれのものになるといい」
デリックが、大きく体を震わせると、突然、火がついたようにそこから跳びのいた。
飛びのいたまま、見開いた目でじいっと日々也を見つめている。
まるで獣だった。
その様を、唇をゆがめてみていた日々也は、
『ふうん?なるほどね』
空から落ちてきた笑い声を聞いて、顔を上げた。
どこまでも白い中空に浮かぶ、矢印は、いった。

『いいよ。許可しよう』







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