静雄の目がゆっくりと瞬き、すこし間をおいて徐々に見開かれていく。
瞳孔が鮮やかに暗闇に浮かび上がるのを、臨也は笑ってみていた。
臨也の尻の下で、静雄の腹が大きく上下する。
臨也は何も答えない。
静雄の胸に両手をつくと、顔を覗き込む。
肩が臨也の頬に触れ、濡れたシャツが体のラインを浮かび上がらせる。
青白い笑みの浮かぶ顔と、シャツがなぞる肌からは、色気がしたたりおちていた。
静雄の目が、筋の浮いた手に注がれ、ゆっくりとその腕のラインをなぞる。
肌の色が浮かぶ腰の形、決してなよやかではない肩をなで、視線は首筋をなぞり、そして最後に臨也の目を見た。
言葉はない。

呼吸だけが、音楽室を支配する音だった。

ふく、と臨也の喉が震えた。
次いで、哄笑が爆発する。
爆発するように、臨也は体をのけぞらせて笑っていた。
臨也の足が静雄の腰をなでたのだろう、びくりと静雄の体が震えた。
そのとたん、笑い声はふつりとやんだ。
臨也が、口元だけ微笑んで静雄をみた。
いまや静雄は紙のように白い顔をしている。
臨也の目が、雨で凍えた体よりも冷ややかだったためだろう。

「ずうっと気になってたんだよねぇ。殺し合いしてるときも、時々シズちゃんの視線がさぁ、こう、ねばっこく絡みつくっていうか。気持ち悪いなぁって。それでまさかまさかとは思ってたんだけど、本当にそうなんだ?」
「……」
「シズちゃん、俺のこと好きなの」

静雄は固く口を閉ざしたまま、目を伏せた。
は、と臨也の喉から笑い声が漏れた。
「傑作だ!あの、平和島静雄が、男好き!それもこの俺を!ノミだの毛虫だのゴミだの罵った男に、恋しちゃうんだ…!」
「違うッ」
悲鳴のように静雄は叫んだ。
臨也の目が先を促すように静雄を見下ろす。
静雄は唇を噛むと、眉根を寄せて、ゆっくりと笑った。
泣きそうなのか不適に笑いたいのかどっちなの、と臨也は思う。
「誰がてめぇみたいな、腐った野郎に懸想するか」
「ふうん?つまり興味があるのは体だけだって?即物的なことで。さすがだねぇ、人間様には理解できないや」
臨也は冷たい唇に嘲笑を浮かべた。
静雄の視線が体をたどる感触を思い出す。
「ってことはさーあ、シズちゃんもしかして、俺のことずりネタにしてるんだ」
臨也ははき捨てるようにささやいた。
静雄の頬が一瞬こわばり、視線がぎこちなく下を向く。
……マジか。
なんてわかりやすい反応だろう。
背筋がぞくぞくするほど気色悪い。
臨也は顔をしかめ、かたちばかり喉で笑った。
「なに、俺シズちゃんの頭の中で、君に突っ込まれてあんあん喘いでるの?」
「……っ」
「それとも、…俺に突っ込まれてよがっちゃう夢でもみた?」
静雄は固く唇をひき結び、ひどい言葉に耐えていた。
臨也の反応なんて当の昔に知っていたようなそぶりだ。
生理的な気持ち悪さに、胸がわるくなった。
静雄には自分は絶世の美女に見えているのだろうか。
柔らかな豊満な胸の美女が自分の腹の上で身をくねらせて笑みを浮かべていたら、…うん、それは見ても仕方ないかな、と臨也は結論を出した。
それがたとえ見知らぬ女でも、きっと視線は女の体を汚すだろう。
そこに強い感情はなく、ただ欲のはけ口として女を見る。
魅力的な肉の塊として無条件に本能が受け入れるだろう。
中身が多少腐っていても、目をつぶればいい話だ。
欲情は愛情に直結しない。
例えば、同じような好みの容姿と体をもった女ならば、本能は同じように反応するのだから。
―――つまり、静雄にとっての臨也もそれに当てはまるのだ。
臨也の胸にどろりとした炎が生まれた。
胸の奥深くを焦がし、吐き出す息を黒く染め、目の前は赤く染まる。

ふざけるな。

何に対してか、そう思った。
「ふざけないでよね」
それはそのまま言葉になった。
静雄の顔が歪んだために、臨也は自分がひどい顔でそれを吐き捨てた事を知った。
「今まで何人、俺の愛する人間をその汚らわしい頭で汚してきたか知らないけど、そのうえ俺に、よりにもよって欲情しただって?冗談でも胸が悪くなる。見境がないのもいい加減にしなよ。きたならしい。おぞましくて吐きそうだ」
美しくない言葉だった。
選ぶ間もなくこぼれ出た罵りは、えぐるほどの鋭さを持ちえない。
ただ叩きつける激しさで静雄をうつ。
静雄は深く俯いて臨也の言葉をきいていた。
怒りを堪えているのだろうか。――それとも傷ついたのだろうか。
そう思い至った途端、黒い炎は冷たく青く燃え盛り、臨也は口をつぐんだ。
体を起こし、立ち上がる。
濡れて湿った衣服が冷たく感じられ、今までそれを感じなかったのは静雄の体温と溶けていたためだと思い至る。
埃を払うように、静雄との接触面をはらった。
何か吐き捨てようとして、――何も浮かばないことに愕然とした。
舌を打つと、未だピクリとも動かない静雄の袖からナイフを抜き、側に落ちていた詰襟を拾った。
静雄の足跡がついている。
最悪だ。
臨也はそのまま音楽室を後にする。

最終下校時刻を過ぎた校舎は、生き物が死に絶えたように静かだった。
自分の足音だけが廊下に反響し、その一定のリズムに耳を傾けながら、臨也は靴箱にむかっていた。
けれど、その足音が唐突にとぎれる。

――ほんとうは、あれをネタにでもして脅してやればよかったのだ。

最悪、臨也の体を餌に駒にすることも可能だったかもしれない。
その可能性に思い至ったが、臨也はその考えを瞬時に踏みにじった。
あの男に、自分の体を与えるなんて論外だ。
臨也はそれを、おぞましさからくる生理的な反応だと感じた。
しかしそれは、胸の奥でちかちかと瞬く空しさを無視した結論だった。
臨也の視線が、暗い窓ガラスにうつる。
外は雨、校庭は見る影もなく水浸しだった。
静雄がのした男達も、今はもういない。
敵わないと見て去ったらしい。
――あの不良たちの中に、静雄のお眼鏡にかなった男はいなかったんだろうか。
ふと思って、その思考のばからしさに眩暈がした。
ところどころ穴の空いた、荒れた校庭に泥水が溜まっていく。
そこに何者も寄せ付けず、孤高に吠えた獣の姿はない。
力強く躍動する肉体をまるめ、外見に似合わない柔らかい心を傷つけられて、惨めに教室の床で泣いているのかもしれなかった。
ごつ、と窓ガラスに額を押し付ける。
冷たさに体が震えた。

「……ふざけるな」

裏切られたと感じるなんて、どうかしている。
悔しいと感じるなんて、絶対認めない。
その端から、あの男は、臨也がどう感じているか推察する事もなく、自分の心が思い通りにならない恐怖なんて知ることもなく、傷つけられた事実に傷つくだけなのだと囁く自分がいた。
ああ、ほんとうに理不尽だ。ふざけたことだ。

瞼をとじる。

おおよそ人の感じる憧れも、畏れも、劣等感も、打算も、なにもかもが触れるのを躊躇う美しさで、獣が吠える。
その姿に人々は、獣を一層届かぬ高みに押し上げる。
獣が泣いている事など誰も知らないのだろう。

獣は吠えて泣く姿がもっとも美しいのに。





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ノンホモ!様に提出いたしました。ありがとうございました。

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