首を傾げる。
日々也はナプキンで口を拭いて立ち上がると、客間の大きな窓に近づいた。
側女がこころえたようにカーテンを引き、鍵をあける。
扉は、日々也の手であけられた。
デリックもたちあがり、後を追った。
そこは、小さなテラスになっていた。
端から端まで、十歩もあればとどきそうだ。
日々也は端をぐるりと囲む手すりの側にたっていた。
すでに夜闇は降りていて、墨に小さな光の粒をまいたような夜空が見える。
部屋の明かりが遠のいた分、闇は濃く頬にふれた。
城下町の居酒屋や住宅や、人の営みのともす明かりと、星が同じ光をもって夜闇にういている。
光のある場所だけ夜が照らし出され、闇の端が藍色や紫色に染まっていた。
思わず見惚れてしまうほど、それは見事な夜空だ。

空に、世界に、端がない。

「美しいだろう?」

はっとして、デリックは自分が風景に見惚れていた事に気がついた。
あわててみれば、上機嫌な日々也の笑顔に出会う。
うなづくもの癪で、そっぽを向けば、喉で笑われた。
「実を言うとね」
日々也は視線を景色に戻していった。
「俺は女性を口説いた事が一度もない」
「は」
え?
「これと思うものを心底欲しいと思った経験がとても少ないんだ」
「はあ…」
「どうだろう。デリック、つれない女性をくどくにはどうしたら一番いいとおもう」
……これは、もしかして恋愛相談をされているのだろうか。
(この、俺に?)
人選を激しく誤っているとしか思えない。
しかし一蹴するのも躊躇われて、デリックは眉間に皺を寄せて答えた。
「優しく、するとか」
「なるほど、他には?」
「…プレゼント?」
「鉄板だね。でもそれだけじゃ貢いでるみたいだ」
「…好きだって言う?」
「もちろん告白は大事だ。けどできたら玉砕はしたくないな」
デリックはますます眉根を寄せた。
このやろう、人がちょっとまともに答えてやれば調子に乗りやがって。
「玉砕覚悟で挑むしかねぇだろ。結局相手がどう思うかなんだ。誠実に、心を込めていっても届かないなら仕方ねぇ諦めろ」
えらそうに言うが、多少投げやりである。
だって、デリックとてそんな経験はない。
当然だ。
周りに人が居ないのだから。
日々也は目を瞬いてデリックを見ていたけれど「なるほどそういうものかな」
と空を見上げた。
そうしてそのまま、きょとんとするデリックを振り向いた。
無言で、ただひたすらにデリックの目をみつめる。
「な、なんだよ…?」
日々也は答えない。
デリックは段々恐ろしくなって、身を引いた。
しかしその手を、日々也にとられてしまう。

「明日」

日々也は漸く口を開いた。
「明日から、お前を騎士団に配属しようと思う」
「は」
え、何の話。
とデリックが混乱したのは無理からぬ事だろう。
だって、今までの話の流れはどこへいったんだ。
日々也はデリックの戸惑いなどお構い無しに、デリックの手を引いて手すりにつかまらせた。
「お前に、俺が命より大切にしているモノを送るよ」
滲むように笑って、日々也は夜景を指差した。
手は風をつかむ鳥のように大きく伸ばされた。
「それはこの国。人、動物、物、景色、時間、匂い、喜び、悲しみ。ここに溢れるあらゆる物をお前にあげる」
呆気にとられるデリックに、日々也は歌うようにいう。
「気に入らない?」
「いや、気に入らないって言うか…意味がよく」
もしかしてこのオウジサマは電波なのだろうか。
慄いたが、片手は日々也に握り締められていて、とても話せる気配ではない。
…刺激してはいけない。
デリックはテラスの端に立っている。
足元を吹きぬける風は、小石を落したら地面にぶつかる音が5分後に聞こえそうな、デリックの足元で遊んでいた。
日々也はすこし考えているようだったけれど、やがて、
「そのうちわかると思う」
と頷いた。
「そうか」
デリックも頷きを返した。
「そのための騎士団入りだ」
「……」
「人と笑い、生き物を尊重し、物に愛着を持ち、景色に感動し、時間を惜しみ、匂いに馴染み、ここで生まれる喜びと悲しみの一部になる。そのためにはこの国を良く知り、交わらないといけないだろう?」
潔いほどアッサリと笑う。
「俺一人と関っていては、決して手に入らない」
日々也の言葉は、まるで歌だった。
噛み砕く気もないデリックに、歌は水のように馴染んだ。
視線は自然と、眼下の国へとむいた。
夜闇に浮かぶ光の粒、その一つ一つに人の営みがあり、感情がある。
城下町は、真っ黒なベルベットに光り輝く真珠を蒔いたようだ。
こぼれでた真珠は、周囲の深い森にもちらばり、きっとデリックの目に届かない場所でも息づいている。
…この世界と。
デリックはふいに体の底が震えたような気がして、手すりにつかまる指に力を込めた。
「…何を血迷ったかしらないが、人に首輪かけたときとえらい態度の変わりようだな?」
底冷えのするような声だった。
「同等に扱う必要はねぇ。臨也にいったみたいに、躾でも命令でも調教とやらでも、なんでもすればいい」
「命令されたいの」
「俺がそうされたいと思ってると、言ったのはお前だ」
「おまえが誰かを信頼したがっているとは、いったね」
日々也は淡々と答えた。
「しつけられる側だというのは、本当だろう?お前は世界も人も、何もかもを知らない」
しつけるとは、社会のルールに沿わせるよう教え込む事だ。
日々也はにこりと笑った。
「誰かに仕えるというのは、ただ相手の命令を聞くだけの存在になるという意味じゃない。心から、相手のことを考えてその人のためだけに行動することを言うんだ。それは今のお前ではできないことだろう」
日々也の言葉はすとんとデリックの胸の的を射ていた。
つまり、今のお前では出来ないという部分が。
「いっただろう。今のおまえを俺の騎士にするつもりはないよ」
なるほど確かに、デリックには日々也が何を考えているかなんてまるでわからなかった。
けれど、日々也がとんでもないことをデリックにさせようと言うことだけは、わかる。
デリックに、この国をあげるなんて、デリックのことを知っていたら絶対に言える台詞ではないのだ。
「……っ、無駄だぞ」
唸るような声が出た。
日々也がこちらをみている。
視線を感じて、デリックは底光りする目で日々也を睨んだ。
自慢ではないけれど、自分のピンク色の目は、この淡い色しかない国では目に痛いほど異質だ。
夜闇の中ともなれば、怪しげに輝く自信があった。
「俺は、おまえがいくら待っても何も感じない。そう感じる部分が壊れてるんだ。だから…笑わないし、喜ばないし、悲しまない。何かに愛着ももたねぇ。感動なんか、絶対にしない」
無駄なんだ、とそういうデリックを日々也は暫く静かにみつめていた。
さっきと同じように、じいっと。
ああ、もしかして俺は観察されているのかもしれない。
デリックは気がついた。

――こんなにマジマジと自分を見てくる奴なんていなかったから、相手の反応を見て何を考えているのか推察する、そんな風に人が人と関りあうのを知らないのだ。

観察している時の日々也の目は、凪いだ海よりも静かだ。
「…本当にそうかな」
日々也が微笑む。
わずかに目を細め、滑らかに唇が横にひく。
自分の顔の効果を知っている人間の笑い方だ。
デリックは「流されてやらねぇぞ」という意図を持って日々也を睨み続けた。
「なら、賭けをしないかい」
「賭け?」
「そう。お前にこの国で愛するものが出来たら、俺の勝ち。それが人でも物でも何であっても。誰かと何かする時間が愛しいのでも俺の勝ち」
「そん…」
「何も感じないのでしょう?」
日々也は微笑んでいった。
デリックはぐっと息を呑んで、それから凶悪に笑った。
「…わかった、それで?」
「それでとは?」
「賭けに景品はつき物だろ」
「ああ、なるほど」
日々也は本気で考えていなかったというように、唇に指を当てて、宙をみた。
「そうだね、なら俺が勝ったら、その愛するものが何なのか教えてもらうことにしよう」
「俺が勝ったら?」
「お前の望みを何でも叶えてあげる」
「……おまえ、自分が勝つと思ってるな?」
「当然だ」
日々也は胸を張った。
なるほど。
「上等だ」
満足そうな日々也を見て、乗せられたという言葉がちらりと横切ったが、あえて頭の隅からけりだした。
上等だ、などと啖呵をきった後だ。
もうどうにもならない。

―――と。
突然中空にベルをもった小さな栗鼠があらわれ、地面に落ちると同時に、けたたましくベルを鳴らし始めた。
「は」
え。
その必死さはいったい何のつもりか。
と思うほどけたたましく、ベルはなり続ける。
「ひびや、これ…」
困惑して指で指し示せば、日々也は驚くどころか、どちらかといえばぎゅっと引き締めた表情をしていた。
「またか、――」
「な、なに…」
「仕事」
日々也が体を引いて栗鼠からベルを受け取る。
それは一瞬で形をかえ、両手のひらをあわせてやっと乗るくらいの鏡になった。
栗鼠は日々也の肩にかけのぼり、ご褒美の木の実をもらうとそのままもふもふと食べ始める。
え、なにそれ可愛い。
と困惑したデリックに、日々也は憂鬱にこたえる。
「このごろの頭痛と多忙の種」
ひとつ息をつくと、鏡に向かって囁いた。

「――鏡よ、鏡。この世で最もうつくしいのは誰だ」
「……」
「合言葉なんだ」

肩をすくめて、みるかい、ととう。
デリックはおそるおそる側によった。
日々也は一度ちら、とデリックを見たが、難しいかおで鏡を覗き込んでいる。
まねをしてのぞいてみれば、もうもうと土煙をあげる城壁のようなものがみえた。
かすかに金色の光を放っているが、それも今は星が散る程度の吹けば飛ぶはかなさだ。
あたりでは、いつかみた小さな兎や栗鼠の兵隊がちまちま消火活動をおこなっていた。
「なんだ、これ」
「ファイアーウォール」
「…これが?」
「普段はもっと立派なんだけどね。ここ5日ほどで急に襲撃をおおく受けるようになったんだ」
ところどころぼろぼろなのは、修復が追いついていないためらしい。
それでもまだ、もうもうとした煙を城壁より中に入れていないのは、ファイアーウォールが正しく機能しているに他ならない。
「相手は…」
「ウイルスだろうね。それもかなり手ごわい。俺が直接出向いても、まだ捕まえられない」
「ひとりで何度も襲撃に来るのか?」
「そう。姿をみせないけれどね。同じ相手だ」
いつも少しずつ破壊しては、倒す前にはなれ、こちらが修復をし終えるより先に再び破壊にあらわれる。
いたちごっこのようだが、確実にじりじりとファイアーウォールは被害を受けていた。
「これなら最強の盾といわれたこのファイアーウォールを確実に突破できるよ。もしねらっているなら、こいつは頭がいい。それも相当ね、――」
「……」
デリックはすこし沈黙してそれらをながめた。
ウイルス、――それも、相当あたまのいい。
ふいに浮かんだ面影を、追い出そうと目を瞑って、ゆるく首を振る。
まさか、そんなはずない。
「デリック?」
「ああ、いや…――なんでもない」
デリックはいって、鏡からすこし離れた。
「仕事だろ?いかなくていいのか」
「……いや、もう襲撃はやんだようだ。いまさら出向いてもどうしようもないさ」
いいながら、メンテナンスの指示と見張りの人員の指示をおくりはじめる。
鏡にはなしかけるとそれがそのまま向こうの司令塔にあたる人物につたわるらしい。
デリックはそれをみつめながら、心臓が嫌な音を立てるのをきいた。
(大丈夫だ、なんてことない)
絶対そんなはずないのだから。
浮かんだ面影を頑丈な箱に蹴りこんで、厳重に封をして、心の端っこに投げ捨てる。
自分ですらわからないような、心の端っこに。
心臓の音は徐々に落ち着きをとりもどし、それからデリックはゆっくりと瞬きをした。

――ほら、元通り。

「デリック」
よばれて、顔を上げる。
「待たせてすまないね。…どうかした?」
「いや」
首を振る。
「なんでもねぇ」
「……そう?」
日々也は眉を上げていったが、納得せざるを得ないのだろう。
それくらいデリックの顔には動揺がなかった。
日々也は一つ、息をつく。
「そろそろ中に入ろう。寒いだろう」
「そうだな」
頷いて、デリックは日々也につづいた 日々也が足を止める。
振り返った真っ直ぐな目に動揺した。
日々也は、目を逸らしたデリックにすこし微笑みかけた。
「明日は騎士団に君を紹介するから」
デリックをみたその顔が、苦笑にゆがんだ。
「今日はもう休もう。――いいゆめを」







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