デリックは自宅のベッドに腰掛けて、タバコをふかしていた。
壁に背をつけ、後頭部をあずける。
視線は白い天井をさ迷う。
電子の世界では、部屋の壁がヤニで黄ばむという事がない。
目に染みるような白さだが、もう数え切れないくらいデリックはここでタバコをすっている。
正確に言えば、最近はここでしかすっていない。
日々也がくっついていたからだ。
子供が側にいるのに、タバコを吸うのは気が引けて、おかげで日々也が来てからというもの、デリックのタバコの本数はめっきり減ってしまった。
たまに津軽と酒盛りをしたときなど、白い煙で互いの顔が見えないかと思うほどに発散したけれど。
(……でもあいつ、そーゆーの、いやな顔するんだよなぁ)
まるで子ども扱いを嫌うように、日々也はデリックの気遣いに顔をしかめる。(だけでなく、タバコの吸い口に苦い風邪薬を溶かし込んでみたり、ベッドの下のカートンのタバコを全て中身だけ抜き取ってみたり、悪戯もひどかったが) そして日々也の言葉に、デリックが傷ついたときは、底の見えない目でじっとこちらをみつめてくる。
傷ついていないフリをするデリックを、咎めるみたいに。
というか多分、あれは咎めているのだとおもう。
それに気がつきながら、デリックは態度を変えないできた。

―――あの子供が、デリックへのプレゼントとして目の前に現れた日、デリックははっきりと戸惑った。
当然だ、『君の運命になるため生まれてきた、日々也だよ』と語尾に星でも撒き散らしそうな口調でさしだされたそれが、手も足もか弱く細い、小さな子供だったのだ。
臨也は真剣に脳を病んだのかとおもった。
デリックの恋愛対象としてやってきた子供は、明らかに恋愛対象外の子供だった。
守ってやらねば折れてしまいそうなほど華奢にみえ、縋る事も頼ることも論外に思えた。
いくら対としてつくられたとしても、人格を与えられた以上その役目を放棄する事もある。
サイケのように。
自分はこの儚そうな子供を、弟みたいに大事に守って育ててやろうとデリックは決めた。
まあ、すこし一緒にすごせば、その中身が『儚い』とか『か弱い』とは真逆の存在だというのはすぐにわかったが。
それに時々、体も経験もデリックに満たない子供が、デリックのもっとも弱い部分を見通したように、それを支えようと懸命に手を伸ばしてくるのを、デリックは知っていた。
知っていながら、知らないフリをする。

だって、
「子供になんか、よっかかれるか、ばぁか」
というのはほんの建前で、結局のところ、デリックは怖い。
怖いということに気がついてしまった。
この子供を特別にしてしまうのが怖い。
ふー、と煙を天井に向かってふきつけ、疲れた様にぐったりと壁にもたれかかった。
そんなだから、近づいてくるやつがいない。
そのとおりだ。
散々こちらに手を伸ばした日々也を拒絶した、あの台詞を言わせたのはデリックだ。
臆病な化け物など、誰が好んで好くものか。
「わかってるけど…」
実際、日々也に言われるとキツイなぁ。と、ぼんやり目を開いたデリックは、
「……!?」

ぎょっとした動きを止めた。
目の前に、金色の子供が立っていた。
「ひ、び……おま、なんでここに」
俯いていた日々也が、顔を上げる。大きな目が痛いくらいに真剣に、デリックを刺し貫く。
戸惑ったデリックは、とりあえず体に悪いタバコを側の灰皿にねじりこむ。
「わるい、ぼっとしてて来てたのに気づかなくて…」
な、と最後まで言葉が続かなかったのは、ベッドに乗り上げ近づいてきた日々也が、首にかじりついてきたからだ。
デリックは驚きで言葉をなくした。
子ども扱いを嫌がる日々也は、当然子供がするようなスキンシップを悉く避けてきた。
抱きつかれるなど、初めてのことだ。
飛び込んできた小さな体を恐る恐る抱きしめると、「ごめん」とか細い声が耳元でした。
「日々也…?」
「心にもない事を言って、きみを傷つけた。ごめんなさい」
きみ。
初めて使われた自分を示す単語に、デリックは戸惑った。
日々也がそっと体を離して、デリックの顔を覗き込む。

「デリック…?」
「あ、ああ、いや」
我に返ったデリックは、目を瞬いて、それからゆっくりと微笑んだ。
「気にしてねぇよ」
「…ほんとうに?」
「おう」

なだめる微笑は、もう顔に張り付くくらい浮かべたものだ。
日々也はそれを、にこりともしないでみつめた。
観察するように大きな目が動き、やがてわずかに歪んだ顔は、痛みを覚えたもののように見えた。
それも、実はもう見慣れてしまった顔。
(ごめんな)
心の中の謝罪がとどいたわけでもないだろうに、ふいに日々也がデリックの首にかじりついていた手を、離した。
その手が上に上り、頬をつつみこむ。
「きみにそんな顔をされるくらいなら、泣かれたり罵られたほうがよっぽど嬉しいって、俺はずっと言えないできたけど」
「ひび、や…?」
日々也の言葉に、デリックは目を瞠った。
それは初めて、日々也がデリックの拒絶に真っ向から抗った瞬間だった。
日々也は顔を上げて、微笑んだ。
微笑が消え、怖いくらい真剣な目、が

(ちかづい…?)

ふに、と溶けた雪のような淡い感触が唇に触れる。
わずかに湿り気を帯びたそれは、小さなリップ音を残し、すぐに離れてしまう。

「え……」
なに。

唖然とするデリックに、同じ高さで日々也が笑う。
それは泣きそうな顔で、到底子供のするべき表情じゃ、ない。
その輪郭が、ふわ、と解けたように見える。
ついで、雲をあつめて散らしたような、煙。

「な……!?」
ぽん!という小さな音とともに、煙が弾けて、デリックはびっくりして叫んだ。
「日々也…!?」

と、薄れる煙の中から、腕が二本のびた。
真っ直ぐ、デリックに向かって伸びたそれは、細いけれど白い手袋をまとった、――長い腕。

「は、」
え?

腕が、デリックの首の後ろにまわり、驚きのあまり動けないデリックを、からめとる。
煙に飛び込むかと思われたデリックは、いつの間にか目を瞑っていた。
その額が、肩が、何か硬いものに優しくぶつかった。
「デリック」
ぎゅう、と硬いものにからめとられて、そのくせひどく優しく抱え込まれたデリックは、耳元におとされた囁きに、完全に固まった。
「ひ、」
目を開いて、恐る恐る、自分を抱き取るものを見上げる。

「ひび、や…?」
「うん」

そうやって頷くのは、自分を抱きしめる黒髪の青年、――デリックとそう年は変わらないように見える。
「やっと…」
青年は最後に見た子供の日々也と同じ顔をして、微笑んだ。
つまり、泣きそうな、笑顔で。
その笑顔にぶれるように、子供の面影がかさなる。
デリックは、大きく息を吸った。

「え」
「デリック」
「なんで、おまえ、でか…くねぇ?」
「うん。大人になったから」
日々也は嬉しそうにいった。
「悪い魔法使いのかけた魔法が、お姫様のキスで解けたんだよ」
「……」

えっと?

もちろん理解できないデリックは、完全に置いてきぼりになって、ただ目の前の日々也が、あの日々也であることだけは、変わらない面差しや、表情や、――自分を見る目でわかってしまって、その存在に抱きしめられているという状況に二度固まった。
「ひ、ひび…や?」
「うん。なに」
「ちょっと、…ちょっと、はなせ」
「いやだよ」
日々也がおかしそうにいった。
「ようやくデリックを抱きしめられたのに、ごめんだよ。絶対離さない」

絶対離さない、なんて今時三流のドラマですら使われない台詞を軽やかにいって、もう一度腕の力を強めてデリックを抱きしめる。
その仕草はホットケーキよりも甘い。
それなのに声の芯は冷たいほど真剣で、ちょっとやそっとではゆるぎそうにない。
デリックは、本当に、心底、――心底みるのが恐ろしかったけれど、日々也の腕の中でそろそろと顔を上げて、もう一度日々也の顔をみあげた。

「ん?」
などと甘やかすように首を傾げて、ハチミツも生クリームも敵わないほど甘ったるい目でこちらを見る、日々也の顔。
余計にわけがわからなくなって、本当に真剣に、デリックは思った。
逃げたい。

子犬みたいにふるふる腕の中で震えるデリックをみて、日々也は溶けそうな声で囁いた。
「可愛い…」
「……いやいやいや、ちょっとまて!」
「何?」
「何じゃねぇ、ガキに可愛いって言われるほど…!」
「もう子供じゃないよ」
ぴしゃりといわれて、デリックはびっくりして口をつぐんだ。
「大きくなったんだ。もう、デリックが泣いても抱きしめてあげる事ができるし、寂しくないようにたくさんキスもしてあげられる。俺以外のだれも、デリックが傷つけられないように、守ってあげる事だってできるんだ」
「ひびや…」
「ずっとずっと、こうしたかった」

苦しそうにいう姿が、自分を支えようと手を伸ばしてきた子供の日々也に重なって、デリックはすとんと納得した。
ああ、こいつほんとに日々也だ。
ありえない。
脱力したように力の抜けたデリックに、日々也はまたそっと笑った。

「納得した?」
「いみ、わかんねぇけど」
「うん」
「おまえ、ほんとにあの日々也なんだな」
「そうだよ」

まだ、デリックのほうが大きいだろうその体を、精一杯つかってデリックをだきしめようとする。
子供の頃はただ可愛らしかった衣装が、今は奇天烈なのに妙にしっくり似合っている。
細く優美な線を描く首筋に、デリックは目を細めた。
金色の子供は、輝くような金色の王子様になっていた。
デリックは手を伸ばして、柔らかな黒髪の端にふれた。
日々也がおかしそうに言った。

「もっと触っていいのに」
「いや…だって」
なんか壊しそうだ、とつぶやけば、蕩けきっていた日々也の目に不満の色がちらついた。
「壊れないよ、デリックが触ったくらいじゃ」
「でも」

ふと、子供の日々也が叫んだ言葉が頭をよぎる。
化け物みたいな力を、――。

わん、と耳の中に響いた声に、デリックは反射的に手を引っ込めた。
日々也の顔が、はっきりとゆがむ。
「デリック…」
「いや、わり、そうじゃなくて」
そうじゃ、なくて。

デリックは言葉を続けられずに口を噤む。
顔をゆがめてそれを見ていた日々也は、ゆっくりと目を伏せた。
「まだ、俺が壊れやすい子供にみえるの?」
そうじゃ、ない。
(から、こわいんだって、言っても…きっとこいつはわからないんだろうな)
デリックが、そうぼんやり思った瞬間だった。

視界が反転する。
(――は?)
え。

ぼすん、と鈍い音が耳元でして、視界いっぱいにひろがる日々也の顔を呆然と見上げた。
おしたおされた、――押し倒された?
苦しげに眉を顰める日々也と、染み一つない白い天井が眩しくてデリックは何度も瞬きをした。

「ひび…?」
「俺はもう子供じゃないって、口で言ったってデリックはわからないみたいだから」
「え、いや、ちょ…っと」
「あんまり紳士的な方法じゃないけど。体にわかってもらうのがいいと思う」
「は、」
「デリックを俺のにしたい」
「え、」
「やさしく、するから」
「……」

そのときのデリックの衝撃がわかるだろうか。
たとえ悪魔的に大人びていたとはいえ、可愛い弟分とまで思った、手間のかかる子供に、優しくするから、と言われたデリックの衝撃が。

(……ま、)
「まてまてまてまて…!ちょっと、まて!」
デリックは、自分の手首を押さえつける骨ばった手に密かに衝撃を受けながら、全力で首を振った。
横に。
「ダメだ、っていうか何する気だ!こういうのはちゃんと大人になってから…いや、もう大人だけど!そうじゃなくて!」
「デリック」
「とにかく落ち着け。話し合おう」
「いやだ」

きっぱりといわれて、デリックは思わず口をつぐんだ。
自分の手首を握る指に、力が篭るのを感じる。
「好きだよ、デリック。俺は君を一番の宝物にしたい」
恥ずかしすぎる台詞を、日々也は苦しげにいう。
「だから俺をデリックの、一番大事なものにして」

ひく、とデリックの喉が震えた。
多分なにか言おうとしたのだろうけれど、一つも言葉が出てこない。
(い、いやだ。ちょっとまってくれ)

大事なものにする。
それがどれほど怖いことか、この子供はわかってるのだろうか。
決定的なものが怖くて、下手に動くのも恐ろしくて、デリックは完全にがちがちに固まっていた。
それを見ていた日々也は、一瞬悲しそうに眉根を寄せると、あとには緊張した面持ちで、ゆっくりと顔を近づけた。
また、キスされる。

デリックは、ぎゅうと、目を閉じ、―――。
聞き覚えのある、ぽん、という音がした。
それと同時に、柔らかい幾分小さいものが体の上におっこちてきた。
慌てて目を開けば、そこには半ば予想したとおり、小さな王冠と黒い頭がある。

「日々也…!?」
「う…っ」

日々也は急にぶれた視界に驚いたのか、デリックに抱えられて体を起こしながら、二度・三度、頭をふって目を瞬いた。
そしてそこにいるデリックが数秒前よりも随分大きくなっているのを見て取って、ぎょっとした。
「な、なんでまた子供に……!」
「魔法がとけたからさ」
絶妙なタイミングで第三者の声が割り込んできて、日々也とデリックははっと顔を上げた。
そこにはにやにやと底意地の悪い笑みを浮かべる、臨也の姿がある。

「キス一回なら、10分だけ大人になれる、それが君にかけた魔法だよ」
「話が違う!」
「違わないさ。大人になれる魔法をかけてあげるとはいったけれど、それにどんな制約があるなんて俺は一言も口にしなかったよ」
日々也は衝撃を受けた様子で、デリックの腕の中でくずれおちた。
デリックの胸に、小さな頭がこてんとあたる。

「そんな…」
「まあ、惜しかったねぇ。もうちょっとでデリックをものに出来たのに」

おちこむ日々也に、臨也は楽しそうに追い討ちをかける。
日々也は聞こえているのかいないのか、深く落ち込んだまま顔を上げない。
デリックは、そんな日々也の旋毛を眺めていたけれど、ふいに自分に注がれるにたにたした視線に気づいて目を鋭くした。
「なんだよ」
「いや?よかったね、と思って。未遂ですんで」

デリックがそれに答えられないでいるうちに、臨也は楽しそうに「ご愁傷様」と言い放って、消えうせた。多分、日々也を失意の底におとすために現れたのだ、あの暇人は。
デリックは小さい日々也を抱えながら、ため息をついた。
すると、腕の中の細い肩が、ピクリと震えた。
やばい、とおもって慌ててため息を飲み込む。

「…笑いたければ、笑えば」

ぼそ、と聞こえた声は本当に低くて、うわあこいつマジで落ち込んでる、とデリックはちょっと慄いた。
腕の中の子供は、近年まれに見るほどすさんだ目をしていた。
「よかったね。子供に鳴かされる前で」
「おま…えなぁ」

なかす、の漢字のニュアンスを感じ取ったのか、デリックはうっすら顔を赤くして、呆れたように目を細めた。
日々也は、その視線にすら晒されたくないというように、深く俯いた。
「ひびや?」
何か聞こえた気がして、デリックが首を傾げて顔を近づける。

「…やっと、守れるくらい大きくなったのに」
「……」

複雑な気持ちになって、デリックは腕の中の子供をみつめた。

(やべえ、今たぶん、顔…あつ…)
先ほどの熱の名残だと思ってくれれば幸いだ。
デリックはあさっての方向を向いた。
「あの、なぁ」
雨のように降り注ぐ黒髪の合間から、大きな目がこちらを見上げるのを感じて、デリックは口をつぐんだ。
そして、膝の上にのせた子供を、もっと胸に引き寄せて、自分の視線は天を見た。
「そりゃあまあ、おまえにその…、あのままどうこうされるのは、さすがにちょっと、あれだけどな」
「……」
デリックは腕の抱えた子供に、囁いた。
「悪かったよ」
「……」
「子供だってことを言い訳にして、逃げてたのは、良くなかったと思ってる」
もぞ、と腕の中の体が身じろぎをした。
怒るかな、とおもったけれど、やがて小さい手がデリックの服を握り締めてきたので、ほっとした。

「…デリック」
「ん?」
「早く俺のこと好きになりなよ」
「んー」
「…子供のままでもやりようはあるんだからね」
「……」

こいつほんとたち悪い、とデリックは思った。



***


「なんていうか、結果オーライじゃない?」
「えー」
満足げな臨也の言葉に、サイケが地団太踏んだ。
ちなみにここはデリックの家とはまるで別のファイルだが、三人はきっちり状況を把握している。
早い話が、覗き見をしていた。

「臨也君ってば、男は狼なんだよ!なのに日々也を大人にするなんて…なんど飛び出すの我慢したと思ってるのさ」
「我慢できてないだろう」

途中、日々也を蹴り飛ばしにいきそうなサイケを止めていた津軽が、ふと思い立ったようにいった。
「しかしまぁ、いっそのこと大人にしてやったほうが、事もあっさりすんだんじゃないか?」
「それ、デリックがやられちゃえば良かったのにっていってるよね、津軽」
「本人もまんざらでないなら、ちょっとくらい問題ないだろう。いい大人なんだし」
あっさりといってしまう姿は、いっそ男らしい。
つがるー!?とサイケが悲鳴をあげて、臨也は苦笑した。
「まあねぇ。でも、デリックにはあれくらいが丁度いいと思うよ?考える暇がないのも、考える時間がありすぎるのも、あの子にとってはどうかなぁ、って思うし」
「面倒な奴だ」

言葉のわりに、口調は穏やかで苦笑が交じっている。
同意する臨也の声も、棘もなく穏やかだ。
「まあ、デリックには子供だったり大人だったりして、振り回したり振り回される日々也が一番いいってことだよ」
そうかなぁ、と不満顔なのはサイケで、煙管を吹かせた津軽はゆったりと首を傾げた。

「ならこれは、成功という事でいいんだろうな」
「は?何が?」
「何って、サプライズだろうが」

そういえば日々也はデリックの誕生日プレゼントだったと思い出し、臨也はいよいよ苦笑を深めた。
一年越しのサプライズプレゼントなどきいたこともない。
だがまあ、
「そうだねぇ、デリックにはもう返品できないだろうしね」

なぜならプレゼントである日々也には、日々也本人のぶんだけじゃなくて、そのほか3名全員の愛がつまっているわけだ。
愛されたがりのデリックが粗末に出来るはずもない。
それを聞いた津軽は、大層満足げに頷いたのである。






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