内心を押し殺して、口元だけで笑ってみせる。

「なに?」
「てめぇ、顔赤いぞ」

臨也は目を瞬いた。
(なんて?)
言われた事が理解できなかった。やっぱり頭が上手く働いていない。
自分に舌を打ちたい気分で顔をしかめると、ふいに静雄が立ち上がった。
ノシノシ近づいてくる静雄にわけもなく緊張する。慌てて立ち上がろうとしたが、間に合わない。静雄は臨也の足元にしゃがみ込むと、

「な…っ!?」

突然右ひざを鷲掴みにして、自分のほうに引っ張った。当然、臨也はひっくり返る。
ぎょっとしている間に、今度はズボンを足首からまくりあげる気配がして、臨也は肘で体を起こす。
「なにして…」
「腫れてるな」
静雄は眉根を寄せていた。その視線の先には、太ももくらいの太さに赤く腫れあがった、足首がある。
「これ骨折してんじゃねぇか?」
「……っ!」
臨也は自分の腹筋を利用すると、左足を静雄の顔をめがけて蹴りだした。
添え木が足に食い込み右足に激痛が走る。構わず、体勢の崩れた静雄の上に馬乗りになって押さえつけた。
静雄は意外なほどあっさり地面に倒れこみ、くりだされた臨也のナイフを手で受け止めた。
いつもなら、ここで拳が襲い掛かってくるだろうに、静雄はそれをしない。
(こいつ……ッ)
もし、この抵抗の少なさが臨也の怪我をおもんぱかっての事ならば、なんとしても許しがたい。頬に血が上るのを感じた。
それをじっとみていた静雄は、ゆっくりと口を開いた。
「熱あんぞおまえ。体あちぃ」
「…っ、それが何だって言うんだ。俺に情けをかけてるつもり?いい度胸だね」
「情け?」
本気でわからない顔をする静雄に、臨也は喉で笑った。処置無し。自覚がない行動ほど人をイラつかせるものはない。

臨也は頬に伝ってきたのが、自分のこめかみから落ちてきた汗だとは気づかなかった。
秋なのに臨也の顔は湯気が立ちそうなほど真っ赤だ。凶悪な顔で牙を剥いているのに、手は力が入りきらずぶるぶると震えている。
つまり静雄にはムカつくどころかこいつマジで大丈夫か、と思わず仏心を出さずにはいられない状況にあった。

とはいえ、臨也がそんな仏心など有難がるはずもない。
静雄の手のひらがわずかに切れたのか、にじるような感触があった。だが途端に「きゅう」と金属が引き絞られるような音がする。ナイフの形状はおそらく静雄の手の形に丸められつつあるのだろう。
「これ、特別硬いナイフなんだけど。さすが化け物だね」
苛々と皮肉れば、静かにこちらを見上げていた静雄が淡々といった。
「今のお前のほうが獣っぽい」
「はあ?」
「手負いの獣?って、こんなんだろ」
「……」

つまり、あれか。
怪我して気が立った犬や猫が、爪や牙を突き立てているように見えるのか、こいつには。
煮えるように頭があつくなって、臨也は静雄に止められたナイフに力を込めた。

「余裕なことで。死ねよ化け物」

心なしかぐるぐる回る視界で必死に目を凝らしながら、ナイフを静雄の首に付きたてようと全体重を乗せる。
「俺に情けをかけられるなんて、いつからそんな理性的になったんだ。驚きだよ。実にね。それを成長というのか化け物としての退化と呼ぶべきか俺にはよくわからにけれど」
臨也の脳裏にちらちらと、先ほどの『臨也の関らない静雄の末路』が浮かんでは消える。
「もしかしたらそのうち人間の汚らしい部分をみても怒らずうけれられるようになるんじゃない?まあ、人間社会のほうが君を受け入れてくれるかは別としてさ」
静雄は心底怪訝な顔をした。しかし、成人男性が一心不乱に体重をかけてくるのを(それも鬱陶しいしゃべりつきで)受け止めているだけというのは中々辛い。静雄のもともと低い沸点が『仏心』をスライディングで蹴り飛ばしそうになった瞬間だった。

―――ごろごろ、と頭上で唸り声がした。

それもはるか彼方、空から。
そしてそれは一拍の間を置くこともなく、やってきた。
バケツをひっくり返したような豪雨。
臨也の背後の空が一際暗いのに気付いたときは遅かった。大量の水の槍が落ちてくるのを目撃した静雄もびっくりしたが、背後から大量の水を浴びた臨也も同じくらい驚いた。
2人でぎょっとして、動きが止まった。

「なに…――?」

殺意の合間に疑問が湧いて出たので、緊張の糸が切れたのか、臨也が顔をしかめて額に手を当てた。体が傾ぐ。
静雄が舌を打って体を起こし、臨也の体を支える。
雨の中、水にぐっしょり濡れた状態だと嫌と言うほどよくわかる。臨也の体は火がついたように熱い。
再び『情けをかけられた』にも関らず臨也がかみつかないのは、それができないほど具合がわるいからだ。
割れるように頭が痛い。目が回って気色悪い。
わんわん、と上も下もなく世界が揺れている気がする。

――と思っていたら、なんと世界は本当に揺れ始めた。

「な…っ」
それに気づいた臨也は、慌てて静雄の背中を握り締めた。あろうことか、静雄は臨也を子供のように抱えあげると、自分のリュックだけもって走り出したのだ。
「何してんの!?」
「るせぇ、雨宿りするんだよ!」
「ならなんで俺のことまでつれてくのさ!」
音も聞こえないような雨の中、怒鳴りあうようにして話した。臨也の最もな問いに、静雄は舌を一つ打った。
「非常食だばかやろう」
無理がありすぎる。
臨也は自分の荷物が小さくなっていくのを見ていたが、もう文句を言う気力も消えうせて、静雄の腕でうな垂れた。


***


樹齢がわからないほど巨大な樹だった。
本当なら洞窟があればよかったのかもしれないが、途中みつけたものは雨量が増せば水が流れ込んでくるのでダメだった。
静雄は巨大な樹の根の下に臨也を座らせると、自分も横に滑り込んだ。
樹が掘り起こしているので他より地面が高いのか、水が入ってくる心配もない。幾重も重なった木の根が屋根のようになっているその場所は、格好の雨宿だった。

「…トトロでそうだな」

となりで静雄が呟くのを、臨也はぼんやり聞いていた。正確には心の中で「なに可愛い事いってんのこいつマジきもちわるい」と思っていたが、声に出せるだけの気力がなかった。
みっともない、と思うのにがたがたと体が震える。歯の根が合わないという言葉を身をもって知った気分だ。
ぐしょぬれの上着を脱いでいた静雄が、歯の擦れ合う音に気づいて、ぎょっとしたのがわかる。

「てめぇ、顔真っ青だぞ?おい、大丈夫なんだろうな」
「……る、…さぃ。大丈夫…」

小鳥のようにか弱い声に、全然大丈夫じゃないことを知った静雄は、見るからに顔をしかめた。
「隣で死体にでもなる気かよ…」
臨也の答えはない。口から生まれたような男が、膝を抱えてだまったまま荒く息をついている。
静雄は本当に忌々しそうに舌を打った。

「おい」
「…?」
「てめぇも脱げ」
「……は」

のろのろと臨也が振り返れば、なぜか半裸になった静雄がそこにいた。

(え、なんでこんな寒いのに上裸なの。意味が判らない)

静雄は反応の鈍い臨也を眉をしかめてみていたけれど、もともと我慢の効かない性格だ。鬱陶しそうに臨也の襟首を掴むと、ジャージの上着を脱がせ始めた。
「ちょ、っと…っ」
「るせぇ、大人しくしてろ。こんなもん着てたら余計体温奪われるだろうが」
ただでさえ濡れて脱ぎにくい服だ。業を煮やした静雄に引き破られかねない。恐怖を覚えた臨也は、しぶしぶ自分からシャツの首を抜いた。
静雄は臨也の服をはいでしまうと満足そうに頷いて、自分のリュックをあさり始めた。

(…っていうか、体濡れたまんまだから寒いんだけど)

下手すると本気で死ぬんじゃないかな。と臨也は思う。
しかしとつぜん肩に柔らかく暖かい物がふれた。乾いたタオルだ。
「なん…」
「大人しくしてろ。動いたら殴る」
「……」
背中や肩をタオルで簡単にふき取って、雫の垂れる髪をわしゃわしゃと犬のように拭われた。
もう抵抗する気力もなくて、臨也はされるがままだった。(どうにでもしてよ)とくたりと抱えた膝に頭を乗せてうな垂れていたら、
「おい」
「…こんどはなに」
「頭上げろ」

(化け物のくせに人様に命令するなよ)

ここら辺で、お前が今かいがいしく世話をしているのが天敵・折原臨也だということを思い出させてやらなければなるまい。
何で俺が君の言うことなんか聞かなきゃならないのさ。嫌味ったらしく笑ってやろうと思い、臨也は顔を静雄の方に向けた。その途端、すこし浮いた頭に、なにか袋のようなものを被せられる。

「!?」

もそもそと袋を引き下げられれば、そこには出口が在った。つまり、その布とは乾いた静雄の体操着だったのである。
ご丁寧に長袖である。臨也には1サイズ大きいのが心底気に食わない。
冷え切った皮膚が感知するぬくもりに、臨也は目を細めた。乾いた綿の布とはこれほどに暖かいものだっただろうか。
静雄は湿ったタオルを肩にかけ、人心地ついたらしい臨也を眺め、「まあいいだろう」という顔をした。
いや、全然良くないだろう。

「なにこれ」
「あ?」
「どっから…湧いて出たの。この服とタオル」
静雄は心底怪訝な顔をした。
「荷物は鞄に入ってるもんだろうが。バカかお前」
「なんで君の鞄にはいってんのかって聞いてんだよ、話の流れよめよ馬鹿」
「…てめぇ、無事に帰ったら殺す」
「はぁ…?」

救出されたらってなにそれ。
しかし、いつもならすぐに回転するはずの舌が動かず、開いた微妙な間に何を思ったのか、静雄は前を向いていった。
「…母さんが持ってけって鞄につっこんだんだよ。雨に降られたら着替えろって」
千里眼を持っている、というよりも山に行く息子を心配した母親の優しさなのだろう。
大半の年頃の男子にはウザイといわれて蹴り飛ばされる献身を、この息子は「いらねぇ」とはいえずに持ってきたらしい。
湿ったタオルでも十分体は拭えたのか、寒そうなそぶりすら見せない男は、空を見上げて「やまねぇな…」とのん気に呟いている。

くっ、と喉が鳴った。
気づいた静雄が、振り返る。
その無防備な肩をめがけて、飛び込む。
木の根と地面の間はそんなに高さがあるわけではない。木の根にしたたか頭を打ち付けた静雄は、顔をしかめる。その膝に乗り上げた臨也は、眩暈がする視界を無視して、ポケットの淵をなぞりナイフを取り出す。
首元にナイフを突きつけられた静雄が、心底うんざりした様子で臨也を睨みあげた。

「なにが気に食わねぇんだてめぇは。怪我人は大人しくしてろ」
「怪我人怪我人て、シズちゃん何考えてんの?病人の前に俺、君の大嫌いな折原臨也なんだよ?こんなことして、ありがたがった俺と友情でも芽生えました、みたいな展開になると思ってんの?」
「ありえねぇし思ってねぇ。きもい冗談はやめろ」

本当にいやそうな顔をした静雄に、臨也は舌を打った。
下心、なし。無しだ。全くの、ゼロ!
最悪だ。

「無償の親切?反吐が出る」

はき捨てた臨也は、本気でめまいを覚えた。
静雄のズボンは臨也のズボンよりも随分水を吸っていた。抱えられていたおかげで、臨也が雨に降られたのは上半身が主だったというわけだ。
静雄のズボンからじわじわと水が浸食し、熱が溶け合うような気がした。
「君のだあいじなお母さんの愛をさぁ、こんなことに使っちゃダメじゃない」
臨也は、口元をゆがめて囁くと、静雄の目の前で着せられた体操着の丸首のあたりにナイフを沿えた。一気にナイフをひき下ろす。小気味の良い悲鳴のような音がした。

「て、めぇ…っ」
「あは、ほらね」
臨也は熱に浮かされた顔で、楽しげに笑った。
「無駄になっちゃった」

腹まで晒された臨也の肌を、静雄はさすがにいらだった様子でみていた。しかし、いつもならこの辺りで吹っ飛ぶくらいに殴られているはずなのに、その兆候がない。
臨也の胸の中に、黒い火花がぱちぱちと散った。

(もっと怒りなよ。君にとって俺って、そんなに簡単に受け入れられる存在なわけ?)

臨也はナイフを静雄の心臓の上に押し当てて、ぐっと力を込めた。
静雄の素肌はわずかにナイフの先をひっかけたが、その後は鉄の板でも入っているように一切の侵入を許さない。

「わかってんだろ。俺にそんなもんささんねぇって」
「うるさい」
「諦めて大人しくしてろ。腕に全然力はいってねぇんだよ」
「うるさいなぁッ!ほんとちょっと黙れよ!」

静雄はどっぷりと、ため息をついた。体の奥の奥から、あらゆる感情を吐き出すような深いため息だ。
「…酔っ払いと風邪っぴきだけは、んとに…めんどくせぇ」
「なに…っ」

伸びてきた腕が、臨也の背中に回る。ぎょっとしたが身を引く間もなく、臨也はなぜか、――静雄に抱きこまれていた。
ナイフがバランスを失って臨也と静雄の間に横たわり、臨也の腕を巻き込んだままピクリとも動かない。
驚いて深く息を吸う。冷たい鉄のような臭いがした。

「ちょ…っ、何!?なんだよ、何してんのシズちゃん!気持ち悪い離せよっ」
「るせぇ。湯たんぽは大人しくしてろ」
「湯たんぽ!?」
「発熱してんだからちょーどいいだろうが」

あったけ。
と呟く声に眩暈がした。
ありえない。まず同世代の男を湯たんぽにする発想がおかしいし、臨也も静雄も胸から腹にかけて素肌が触れ合っている。つまり状況としては、裸で暖めあいましょう、に近い。
狂気の沙汰だ。
臨也は思った。
平和島静雄と折原臨也が、互いの肌で暖を取る。

(どうしよう、ぜんぜん笑えない)

頬に静雄の首筋がふれ、身じろぎをするたびに滑らかな肌が上下する。
臨也は暫く腕の中で脱出を試みたが、静雄の腕は下手な鉄柵より頑丈だ。
力の出ない臨也ではまるで歯が立たない。
とうとう力尽きた臨也は、ぐったりと静雄にもたれかかった。耳元で、患部の脈動が聞こえた。

「……なんなのこの状況…。女の子ならまだしも、シズちゃんと抱き合って暖取るなんてサイテー…」
「だまれ。死ね」
「お前が死ね…もうやだ言葉通じないし。息したらシズちゃんの匂いするし。汗臭いし。息しづらいし」
「なら息すんな」

熱っぽい息が口から漏れた瞬間、静雄がわずかに身を震わせた。多分臨也の息が首筋にあたってくすぐったいのだろう。
せめてもの嫌がらせに、臨也は首筋に顔を近づけた。それはもしかしたら、猫が擦り寄るようにも見える。
「…死んだら湯たんぽじゃなくなるよ」
「死んだ瞬間外に放り投げる」
「意味解んない。人の死体勝手に捨てないでよ」
臨也はもぞもぞと身じろいで、なんとか左手を静雄の腕の下から這い出させた。
右手も、と身じろぐがナイフを握ったままでは上手く行かない。気づいた静雄が少しだけ間をあけて臨也の手を外に出させた。
臨也はナイフをすてて、静雄の背中に手を回した。静雄の腰は細い。一周させて自分の手同士を組むと、わずかに静雄の腰骨が腕に刺さって痛かった。

「おい」
「なに?言っとくけど、離さないからね。死体になってから捨てられないように今からしがみついとくんだから」
「…うっぜぇ。マジでノミ蟲だな。歪みなさすぎて殺してぇ」
「死体には死後硬直というものがあってね。無理に離そうとしたってそう簡単にはいかないから、覚悟するといいよ」
「人の上で腐る気か。死んだ後まで迷惑かけんな」
「立つ鳥跡を濁さずという精神は俺の美学に反する。シズちゃんに対してだけだけど」

うぜぇ、という静雄の呟きを最後に、2人は口をつぐんだ。
外では相変わらず雨がふっていて、大樹の葉と木の根にまもられたそこからは、遠くの雨音が聞こえるだけだ。
化け物が息づく音が、耳元に落ちる。

「このまま、救助が間に合わなかったらいいのに」

臨也はふいにたまらなくなって囁いた。
「あ?」
「シズちゃんを餓死で殺せる」
「てめぇも死ぬだろ」
馬鹿か、と鼻で笑う気配がある。
「そうなっても、少なくともこれ以上君が、おれの愛する人間達と触れ合うことはなくなるわけだ」
あの『臨也が関らない静雄』というものが遠のいた気がして、臨也はそっと呟いた。
「悪くはないさ」
「正気かよ」
静雄の声に臨也は笑って囁いた。

「俺が死んで、君が死んで。2人ともどろどろに腐って混ざりあいながら土に返る。そんな風に考えたら気も触れそうになるけどね」
「恐ろしいこと言うな」
「そうかな」

これからもし静雄を愛する人間が現れたとする。静雄もその人間を愛し二人は幸せになりました、なんて事態よりはずっと、死ぬ想像は臨也に優しいとおもう。静雄が人間と愛し愛されるなんてことになったら、きっと臨也は静雄への嫉妬で焼き殺される。
逆に静雄だって、このまま先の長い人生をただひたすら誰のぬくもりも知らず冷たく生きていくことだってありえるのだ。否、誰かを娶ることがあっても、その人物が静雄という存在を理解することができるかはわからない。

臨也は知っていた。
静雄を一番理解しているのは、不本意ながら自分であると。
そして自分が静雄という存在を受け入れる事は、きっと永遠にない。
静雄と臨也は、平行線のまま交わることなく、2人ぼっちの、静雄にいたっては独りぼっちの戦場で生きていく。
それはどこか、遭難に似ている。
誰もいないただ2人だけの場所で、互いを永遠に拒絶しあう。差し伸べられる手はなく、枯渇し、日に焼かれ、餓えながら、それでも互いに手を伸ばしあうことなどない。

静雄は力を目覚めさせた瞬間に。
そして多分、臨也は静雄と出会った瞬間に、この戦場から逃れる術を失った。

それならまだ、臨也が静雄の死を握れるこの場所で死んでしまうことは、互いにとってそれほど悪いことではないと思うのだ。
臨也は静雄の肩に頭を預けて、くったりとしていた。
熱が上がったのか、先ほどから視界が霞んでいる。
視界が輪郭をなくし色の洪水になる。
灰色、肌色、茶色、黒、そして金色。

「おい…?」
「餓死する前に、高熱で死ぬかも」
怪訝な声に応えて、目を閉じた。上も下もわからないような吐き気のする眩暈がある。右足の激痛は、もはや鈍い痛みが鼓動のように継続的に襲ってくるだけだ。
臨也は静雄の腰のあたりで組んだ手を、もう一度ぎゅっとにぎりしめた。

「ねえシズちゃん。俺の今際のお願いを聞いてよ」
「嫌だ。ぜってぇ碌なことじゃねぇ」
「そうでもないさ」
臨也は手を差し伸べて伸び上がると、熱っぽい息をはく唇を静雄の耳に近づけた。
「このまま…」
こそばゆいのか、静雄が身を震わせる。

「このまま死ねよ」

今なら、一緒に死んであげる。

自覚があるほど甘い声に、歯がとけそうだと思った。








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