静雄は言う。
だからこそ、かえって欲しい。
ガードマン達は、いざとなればここにいるモノを全て射殺してでも仕事をする。
ネブラが雇っているのは、そういう連中なのだ。

「帰ってくれ」
「―――ふざけるな!」

声は、まるで静雄の頬をはるように響いた。
「それを、信じろというのか、ここで、ぬくぬくと生きているお前の言葉を、信じて、かえれというのか」
「そうだ、俺の子供は、治療すら受けられないで、今にも石になりそうだっていうのに!」
声は、人の間からいくつも上がり、やがてそれらは練り編まれ、一つの大きなうねりになって、静雄の前に立ちはだかる。
静雄には何一つ言い返せない。
全て真実だからだ。
言い訳すら、しようがない。
静雄が、幽を選んだのが勝手ならば、この人々が、ここに救いを求めて、――恐らく静雄が幽にもつような、何を犠牲にしてでも助けたいという、必死の思いを持って、この病院を襲撃するというのもまた、彼らの勝手なのだ。
ならば、静雄にできるのは、ひとつだけなのだ。

「かえれ」

静雄はいって、そばにあった標識を、ひっこぬいた。
病院前のロータリーに唯一ある、一方通行を示す、標識を、静雄は抜く。
たやすい見た目とは裏腹に、あまりに、鈍い音が、周囲に響き渡る。

――ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、ばきん!

「でなきゃ、力ずくで…」
「ははっ、相変わらず、そーんなやり方しかしらないんだねぇ!しーずーちゃん?」

嘆かわしいほど頭悪いなぁ。
吐き気がするほど、懐かしい、その声。
静雄は、ゆっくりと、目を眇めた。

「臨也ァ……ッ!」

その男は、いつものように、人混みのなかから、大好きな人間達にまみれて、姿を現す。
影のように、いつのまにかそこに、たたずむのだ。
今も臨也は、人々の影から、突然現れては、今の今までそこにいたような顔をして、こつりこつりと、音を立てて優雅に歩き、静雄と対峙していた。
真っ黒のコートに手を突っ込んだまま、臨也はちょっと顎を上げて、見下すように静雄をながめる。

「ひさしぶり、ちょっと見ない間に、何か痩せた?」
「てめぇは胡散臭さに磨きがかかったじゃねぇか。ノミ蟲野郎」
「やだなぁ、シズちゃんの劇的ビフォーアフターには負けるよ」
臨也は肩をすくめて笑う。
その目に、嗜虐の光が浮かんだ。
「ここ数日で、とうとうあらゆる人間からちゃんと嫌われる本物の化け物に成長しちゃうなんて、大出世じゃないか。どうだい?泣いた赤鬼から、正真正銘のヒールに転向したご感想は」
「何、わけわかんねぇこと、ごちゃごちゃぬかしてやがる」
静雄は低く、低く唸るように言った。

「コレも全部、てめえの仕業か……」
「何の話かなぁ?」
しかし、彼はひょいと肩をすくめ、
「でも、まぁ…悪くないシチュエーションではあるよね」
それからポケットに突っ込んでいた手を、繰り出して、そこに握られているモノを、静雄にむけた。

「人間の味方として、『悪者』を退治するって言うのはさ」

ぬらりと、銀の刃がきらめく。
「ハッ…!今日こそ息の根、とめてやる!」
静雄は言うが早いか、標識を振りかぶり、一気に跳躍した。
臨也のいた場所に振り下ろすが、避けられてしまう。
悲鳴をあげて、周囲の人々が逃げ惑ったが、静雄の視線はするどく人々を見渡し、真っ黒な影を探す。
その目に、ナイフの刃先が迫る。

「……ッ!」
「おっと、惜しい」
のけぞった静雄の前で、臨也は心底忌々しげに舌を打つ。
その苦く笑う顔のすぐ側を、標識が薙ぐ。
静雄はひどく近い距離にある、その男に、唸った。

「何のつもりだ、ここにワクチンなんざねぇことくらい、調べはついてるんだろ…!」
「もちろんさ。そんなものがあるなら、世界の金持ち連中がこぞって助かってるだろうからね」
ただ、と臨也は静雄の首筋を狙ってナイフを突き出しながら、その耳に囁く。
「どうしても、その存在を否定できなかったのも事実さ」
「…何の話だ」

息が、あがる。
いつの間にか思い通りにはならない体に、ひそかにしたうちをしたい気分だ。
知ってかしらずか、臨也が笑う。
「病原体であるはずの弟を抱えて、この病院に駆け込んだどこかのお兄さんが、病を発症してないかもしれないっていう報告は受けてたからね」
「てめぇ…!」
静雄は、ナイフの切っ先を避け、標識を薙いだ。
臨也が、突き飛ばされたように後方に跳び、唇をゆがめた。
「そうなると、世間はこう考えたりするのさ。実験体になった兄の体に、抗体となる物質が出来、ワクチンができたんだ、とかね」

臨也のその目は、血をめぐらせたように爛々と輝き、静雄をみつめている。

「……ッ」

静雄の背筋が、ぞくぞくと震え上がった。

(そんなに都合よくその結論が蔓延するはずがない)
「てめぇが、広めたんだろうが…!」
「言いがかりはやめろっていってるのに」
わからないやつだなぁ、などと、この男に言われたくはない。
久々に、カッと血が上り、静雄はその衝動のままに標識を振り下ろした。
しかし臨也は軽々とその攻撃をよけると、無防備になった静雄の懐に、飛び込んだ。
「元がどうあれ、広まり、多くが信じれば真実さ」
「ぬかせ…!」

静雄が唸った瞬間だ。
臨也の手が勢いのまま静雄の首に伸びた。
目を見開く。
足払いをかけられ、静雄は背中から転んだ。
以前なら、ありえない失態だ。
(なんだ、このにおい)
臨也は手袋をしていた。
地面に頭を打った衝撃より、そのにおいに顔をしかめ、静雄は臨也を見た。
臨也は、静雄の体を押さえつけるように腹の上に座り込んでいる。
正直気色の悪いことこの上ない。
払いのけてしまえと、標識を持つ手に力を込めたときだ。
ぎょっとする。

「――本当に、発症すらもしてないんだね」

臨也が、こちらをじっとみていた。
笑いもせず、嘲りもせず、殺意もなく、ただ純然とこちらをみつめる。
その静かな目に、静雄は全身が毛羽立つのがわかった。

「い、ざや…」
「……」
臨也はじいっと、静雄の目を見た。
その時間は、とても長く長く感じられたが、実際はおそらく、ほんの少しのことだろう。
すう、とナイフをもった細い腕がふりかぶられる。

(あ、やられる)

静雄はそのとき、本当に、そう思ったのだ。
嫌だでも、助けてくれでもなく、事実を認識した。
それほど的確に、臨也の目にひらめいた鋭い光は、『殺意』
という形をしていた。
鋭く尖ったナイフのように。

―――ずぷり、と。

刃先が喉に食い込み、一文字に、喉をさく。
静雄の目の前に、一瞬にしてその感触が広がり、そして、静雄は確かに、―――それを、待った。
体は一瞬抵抗を忘れ、臨也のナイフに、肉を傷つけられ、引き裂かれ、殺されるのを、夢想した。

(たの、む)

静雄は声に出さず、視線だけで、――おそらく、懇願した。
びく、と、臨也の腕が震え、目が、驚いたように見開かれた。
しかし、

「――ッ、!」

ハッと息を呑んだかと思うと、臨也の体は、静雄の上から消える。
そして聞こえる、豆をまいたような軽い音。
静雄は目を瞠る。
臨也は飛びのいた形のまま、銃を構えているガードマン達をみた。
彼らは、臨也にむけて、銃を構えている。
もっとも大事な研究材料である静雄を、彼らは何においても守らねばならないのだ、と、静雄は漸く気がついた。
ひく、と静雄の喉が震えた。

「やめ、ろ……!」

静雄は、慌てて、両腕を広げた。
「殺すな!もう、誰も殺さないでくれ!」
人の群れに向けられた銃は、困ったように、固まった。
引く事もできないが、静雄を傷つけることもできない。
それは人々も同じで、臨也と静雄の戦闘という間を経て、ほんのすこし冷えた頭は、正確に、自分たちと、マシンガンを持つガードマン達との、戦闘能力の圧倒的な差を認識していた。
何人もが逃げ腰になり、何人もが、それでも進もうとしている。
薄氷を踏むような、葛藤とせめぎあいの沈黙を、破ったのは、

「――ひこう」

臨也の声だった。
「ここでオレたちが死んだら、誰が家族の下にワクチンをもっていくことができる?引くべきだ」
今のままでは、犬死だ。
ほんの短い言葉だったが、それは、指針をもとめていた人の群れには、格好の理由となった。
そうだ、そうだ、という声がいくつもあがり、じりじりと、人々は後退する。
そうなれば、追おうとするのが人の性なのか、ガードマン達は再び銃口を、人々に向ける。
しかしそれを、立ち上がった静雄が、させなかった。

「うつな!」
ぎらぎらと、俯いた顔から覗く双眸が、彼らの指を氷付けにする。
動けないのだ。
飛びかかる前の獣のような男が、威嚇するように低く呟いた。
「てめぇら、絶対に、動くんじゃねぇぞ…」
その行為は、あまりに偽善めいていて、事実静雄は、自分で自分に唾をはきたくなった。

ああ、反吐が出る。

人々は、様子を伺うように、じりじりと後退し、そうしてどうにもガードマン達が動かない事を悟ると、一斉に踵を返した。
彼らはまたくるだろう。
何度でも、何度でも。
それは、ガードマンにも静雄にも、よくよくわかっていることだったが、それでも、彼らはじいっと動かなかった。

(はやく)

静雄は思う。

(早く、いけ)

見ず知らずの人々も、そうして、――あの男も。
静雄は、背中を一度も振り返らなかった。
ただ、人っ子一人いなくなるまで、いくつもの銃口を威嚇し続けたのである。











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