空蝉の橋




「うぉ…っ」

鈍い音を立てて、木の板を踏み抜く。
静雄の血は一瞬にして凍りついた。
幸い反射神経は悪くない。踏み抜いたと同時に後ずさったため、川底におちていったのは腐った木の板一枚だ。
ここ数日の雨で増水した川が、まるで塵のように木の板を飲み込んで何事もなかったように流れていく。
茶色の濁流を暫く無言で眺め、静雄はため息をついた。

(このつり橋ももう古いな…)

鋼鉄の支柱とザイルに支えられているが、肝心の橋板は木製のそれを並べただけである。いたるところが風化し、腐っていた。
叔父が渡したきりろくに整備もしていないのだから当然だ。
「今度ちゃんと補修するか」
そういって、草履をはいた足で先ほどより慎重に進め始めた。また腐ったところを踏み抜いては敵わない。
つり橋の下は8m弱の川面である。落ちても死にはしないだろうが、できれば避けたい。泳いで再び山を登ることを考えると、この春、三十路を迎えた体には少々つらいものがある。

「っと…」

腐って色の変わった板を跨ぐ。
つり橋の上を、白い紬の裾が翻った。着流し姿の静雄の背中で、紺の兵児帯が蝶のように柔らかく跳ねる。
ここにきてから、着物でいることが多くなった。傷みにくいし、なにより洗濯物が少なくてすむ。

つり橋の先は一本道だ。
ろくに舗装もされていないなだらかな坂道が続いている。ついこの前まで厳しい冷え込みが続いていたせいか、木々の緑は未だまばらだ。
和らげた春の日差しの中を、静雄はゆっくりと登っていく。
もう少し季節が熱を帯びれば、浴衣にしてもいいかもしれない。頬をなでる日差しに目を細めた。
襦袢がないほうが楽でいい。

気がつけば、時間の一歩先の事をぼんやりと見通す癖がついた。
淡々と自分のペースで雑事をこなしていく事を、静雄はこのふた月で習得しつつあった。
用事はたくさんあるのだが、用事に追われているわけではない。時間には限りがあるが、惜しむほどではない。
池袋にいたころには、考えられなかったことである。

やがて坂を上りきったところに門が見えてくると、その背後に二階建ての日本家屋が建っているのが見える。木と障子、そして塗り壁でできたその家は山の中腹にぽつんと建っていた。
門番のような木の間を、静雄は誰に気兼ねすることなく通り過ぎる。門は古い木戸で、静雄の鳩尾くらいしかない。後ろ手にそれをしめると、絨毯のような花畑の中に、飛び石が家の玄関まで続いているのが見えた。
静雄に少女趣味はないが、咲き乱れる花々と日本家屋というのは意外に相性が悪くない。
雨が降るとぬめりを帯びて滑りやすい石を、静雄は草履の裏で踏みしめながら渡った。
風が渡ると、花々が揺れる。溶けない雪のような感触が、静雄の足をくすぐる。
玄関にたどりつくと、静雄は首から提げた鍵を取り出し、玄関口に差し込む。引き戸を開けば、その先には薄暗い廊下が広がっていた。

廊下は昼なのに障子に囲まれて窓がない。
影をより濃くし、光を殺す。二階に続く階段の中に、4つ輝く目があった。
草履を脱ぎながら、静雄はすこし目を細める。

「ただいま」

飛ぶようにかけてきたのは、長い茶色の毛の犬である。日本犬の血を引いた雑種なのか、きりっとした顔をしている。しかしこうして静雄の足元で目を輝かせる姿はただ愛らしい。
「悪戯してないだろうな、夢」
頭をなでてやると、『当たり前だろ』というように満足げに息をつくのが面白い。そこにもう一匹の足音を聞いて、静雄は顔を上げる。
「どうした、月島」
ベージュの毛色のその猫は、首元だけがマフラーをしたように真っ白だ。
夢の後ろからそっと近づいて、静雄の足に頭をこすり付ける。静雄の顔から笑みがこぼれた。

そのときだ。
廊下に鈴を転がしたような音がして、三匹は顔を上げた。
電話である。静雄はあわてて草履を脱ぎ捨てると、小走りで廊下の端にある電話をとった。
黒光りするダイヤル式のそれは、ちりん、と高い音を立てて静雄と誰かを繋ぐ。

「もしもし…?」
『あ、もしもし、静雄?』
「新羅」

静雄は耳慣れた声にほっと肩を落とす。
「何のようだ?」
『悪気がないのはわかるけどその言い草はどうだろ。あ、うん。繋がったみたい』
新羅がだれかと話している。十中八九セルティだろう。
『セルティが、君のことが心配だからって』
「そこにいんのか?」
『うん。自分じゃしゃべれないから、私に代弁しろっていってる』
「そうか。悪いな」
その『悪いな』は新羅に向けてではない。直接会話ができないセルティに向けてだ。新羅もニュアンスを汲み取ったのかどうか、『まったくだよ』と苦笑交じりに言う。
『今時パソコンも携帯も通じないって、どこの時代にタイムスリップしたのかと思ったね』
「アンテナたてりゃ、パソコンは何とかなるらしいけどな」
『テレビってどうなの?』
「特に、見るもんねぇし」
『凄まじい非文明生活だね。セルティが隣で慄いてるよ!』
どうやらハンズフリーにして、静雄の声がセルティにも聞こえるようになっているらしい。声がわずかに遠い。新羅がひとしきり『まるで小鳥みたいだ』とか『妖精なのにテレビ好きなギャップも素敵だ』と、セルティを褒め称えたところで、静雄は苦笑した。その声が聞こえたのか、ぴたりと新羅の声が途切れる。

「…なんだよ?」
『いや』

新羅が電話の向こうで苦笑したのがわかる。
『どうやらそっちの生活は、随分君の肌にあってるらしいね』
「あ?」
『あまり苛々しないんじゃないかい?声が穏やかだ』
「あー…」
そういえばそうだな、と以前は新羅の語りの最中にも時折忍耐が切れることがあったことを思い出した。
今はその兆候が欠片もない。電話のせいかもしれないが…。
『よかったなって。セルティが』
静雄は足元に頭をこすり付ける夢をなでながら、「そうだな」と口元を緩めた。

『生活にはなれたかって』
「大分な。薪割りとか釜でメシ炊くとか、やったことなかったけど慣れればそんなに苦労はないな」
叔父の趣味なのか台所が昔ながらの土間であり、かまどに火を入れる方式である。暖の取り方も火鉢と、なにかと薪は入用だった。初めて見たときはさすがにひるんだが、今ではそれなりにこなすことができた。
新羅がくすくすと笑った。
『セルティが、薪割りをしてみたいっていってる』
「いいもんでもないぞ」
手加減を忘れると、薪が粉砕する。

『時間が出来たらあそびにいっても構わないかな。僕とセルティで』
「ああ」

静雄はふと胸の奥がざわざわと暖かくなったのを感じた。
「布団なら余ってる。来る前に一本連絡入れろ。干す」
『うん。絶対にいくってさ』
「そうか」
『楽しみだよ』
それは多分、新羅の言葉だ。
静雄はもう一度、そうかと返した。
言葉の調子の割りに、声はひどく穏やかだ。凪いだ湖面のようで、新羅はまた少しだけ黙った。

「そっちは」

静雄は目を伏せた。飴色をした廊下の板張りが、集めた光を鈍くはじいていた。
「そっちはどうだ?」
新羅は穏やかに答えた。
『うん、騒がしいよ。何時もの通りさ』
耳の奥に喧騒が甦った気がして、静雄は洪水のように押し寄せる音の波に耳をすませた。
「…そうだな。池袋が静かなわけねぇか」
『そうだよ。まあなんていうか、あんまりにも騒がしくて』
新羅は少しだけ声をひそめた。

『すこし嵐の前の静けさに似てるよ』

一瞬の静寂は、耳にしんとした痛みを走らせる。

しかし。
『いた、ちょ、イタイイタイってばセルティ!ごめん、いや別に今のは他意があったわけじゃなくって、なんかそれっぽいこと言ってみたかったって言うか…!』
どうやら静雄に変な心配をかけるな、とセルティが新羅を責めているらしい。
痛いのか嬉しいのかよくわからない声音で新羅が謝るのが聞こえる。セルティは多分影を操って新羅の頬をつねっているのだろう。その情景が浮かんできて、静雄はふと自分の気が緩むのを感じた。

池袋の喧騒は、もう遠い。
嵐が来ても、ここからでは斃れる花を支える事もできない。もっとも、池袋にいた頃からそんなことはできやしなかったけれど。



***



人々の話し声と、店舗から聞こえるBGM、容赦のない車のエンジン音が混ざり合う、音のうねりがそこにはあった。
やっぱりいつ来てもこの街はいい。
仕事の関係上、ここ数年は忙しくたちよる機会はどんどん減っていってしまったが、臨也は変わらずこの街のこの人混みを大層愛していた。
様々な人間がひしめき合っていて、キューをどう弾くか考えるだけで背筋が震える。
泳ぐ魚が生まれた川に戻るように、『折原臨也』がこの喧騒を特に好むのはその感覚に近いものがあるのかもしれない。
とはいえ、もう三十路にも手が届こうという男が、ふらふらしているにはすこし目がつく場所である。
学生服を纏っていたころは、この街の空気も視線もすべてが味方だったのだけれど、今はそうも行かない。黄色のバンダナを巻く学生に、大声で笑う不良グループ。彼らはすでに街の景色に一体化している。臨也にはもう出来ない芸当だ。
ファー付きの春物の黒いコートを翻し、臨也は途中でタクシーを拾った。

行き先は新宿。
電車を使うのもいいが、今はさっさと家に帰ってしまいたい。昼間の歌舞伎町はビジネス街の朝ににてる。JR新宿駅前には腐るほど人がいたにもかかわらず、その界隈では姿がまばらだ。祭りの後のような有様をタクシーで通り抜け、臨也は自分の事務所があるマンションの前で車を止めさせた。
臨也は鞄を持たない。身一つでタクシーから降りると、マンションに入る。
部屋の階数はそんなに多くはなかった。臨也の事務所は丁度真中にあたる階にある。
部屋に入ると、暖かい夕食の香りがした。臨也は羽織っていたコートを脱ぐと、部屋の中の女に声をかける。

「ただいま、波江さん。今日はグラタン?まだ寒いもんね」

波江、と呼ばれた彼女は、その問いには答えず無言で台所から出てきた。
臨也がソファにコートをかけ、そのポケットからとりだした駒をガラステーブルの上のチェス台に置くのを見て、わずかに眉を動かした。
「遅いと思ってたら、池袋にいってきたの?」
「ちょっとね」
臨也はPC前のチェアに腰掛けて笑った。
「息抜きみたいなものさ。やっぱりあの街はいいよ、実にいい」
「そう」
波江は仕事を放り出す上司に一言の嫌味もなく頷いた。怪訝に思った臨也が顔を上げたときだ。

「もう、興味をなくしたのかと思ってたわ」
「俺が?」
「ええ。だってもういないでしょう」
波江はさらりといった。
「平和島静雄は」
「……なんでそこにシズちゃんがでてくるのかなぁ」

ぼやく臨也の声を、波江は黙殺した。どうやら臨也に嫌なものを思い出させただけで満足したらしい。
嫌な女だな、と心底思う。
「大体もう、シズちゃんがいなくなって4ヶ月もたつんだよ?その間に俺が何度池袋に行ったと思うのさ。邪魔者が消えてむしろ回数が増えたって言うのに」
「あらそう。数えてなかったからわからないわ」
「……」
最近ますます、扱いを覚えられている気がする。臨也はため息をつくと、PCを立ち上げた。
インターネットという情報の海を泳ぐのに必要なのは、指先と情報を見極める目だけだ。
仕事で必要な情報と、いくつか池袋の情報の合間を泳ぐ。一つの掲示板のスレに臨也の指先が止まった。

『そういえば平和島静雄、死亡説ってマジなんですかね?』

臨也はその問いに心の中で答えた。
マジではない。残念な事に。
平和島静雄は、約4ヶ月前に池袋から、――東京から姿を消した。
だがそれは死亡でもなんでもない。
適切な答えをさがすなら、『隠居』である。

思い立ったが吉日というか、静雄の行動は実に迅速だった。
臨也は不覚にも、――静雄の隠居を全てなされた後にしったのだ。
初めはやはりインターネットだった。

「最近、平和島静雄を見ない」

という書き込みがやたらと多いな、と思ったのだ。
静雄は30を迎えた今も取立ての仕事をしていたが、上司の田中トムは事務方に回り、一人で取り立て業を請け負うようになっていた。
時折後輩らしき若い男が静雄の後をついて回っていたが、田中トムのように静雄をコントロールすることもできなければ、本当に後ろからついてまわるだけで、役に立っているのを見たことがない。そのせいか仕事はもっぱら静雄一人だった。
歳を重ねるごとに少しずつ怒りの制御に成功しつつあった静雄だが、優秀なコントローラーを失ったために、爆発すると相変わらず手がつけられなかった。
つまり、未だに『決して怒らせてはいけない池袋最強の男』の名は静雄のものだった。
そんな静雄の姿を見かけない、という書き込みが不自然なほど増え始めて、臨也はその真偽を確かめた。

――静雄は仕事をやめていた。

その唐突さは『自主退社』よりも『クビ』がぴたりと当てはまった。臨也は、てっきり静雄がとんでもない問題を起して首にされたのだと思ったほどだ。ざまぁみろと。

しかし、妙な胸騒ぎが収まらず、情報を継続して集めていた臨也が、新羅の家に行った際だ。
「え、臨也しらないの?」
新羅は目をぱちぱちさせて心底不思議そうにいった。

「知らないって何が?」
「静雄、引っ越したんだよ」

寝耳に水とはそのことだった。
その日はどうやって自分の部屋に帰ったのか覚えていない。
気がつけばパソコンと電話を駆使して、情報をかきあつめていた。とはいえ、臨也がもっとも有益な情報を手に入れられたのは門田からだ。
静雄は丁寧にも、池袋を離れる際に友人たちに挨拶をして回ったらしい。
静雄が移り住んだ地名を聞いて、臨也は不覚にも絶句した。

池袋から電車で2時間、乗り継ぎにつぐ乗り継ぎを経て、ようやくたどり着く小さな駅から、更に車で20分ほど行った場所だ。
東京の周りは意外なほど開拓されていない山々がある。
静雄がうつりすんだのはそんな山の一つで、そこにはつい最近まで平和島静雄の叔父が一人住んでいた宅があった。

劇的な変化の理由はそもそも、――その叔父がどうも死んでしまったらしい。というところからはじまる。

株か何かで大もうけをしていた彼は、残念ながら静雄の父以外に身内が一人も居なかった。
つまり彼の財産と、その山の中の家はそっくりそのまま静雄の父に転がり込んだのである。
当然平和島家では緊急家族会議になったことだろう。詳しい経緯を臨也は知らない。
ただ、その財産の一部を使って静雄は借金を返し、叔父の家へと引っ越していった。
そのときの静雄の考えなど臨也にはひとつもわからなかったけれど、ただ一つ言えることがあるとすれば、

――あの生真面目な男が、他人の金で借金を返し、山奥に引っ込んだ。

いかなる理由があるにせよ、山奥に引っ込むと決めた静雄の意思は相当のものだということである。
――金持ちの親戚はもっておくものだね。
大体の全容を把握した臨也は、ぼやいた。
その口元には笑みが浮かんでいる。
当然だろう?だって、長年の天敵が何もしなくても目の前から消えてくれたのだ。今喜ばずして、いつ喜ぶのだ。

「おかげで、すごく仕事がやりやすくて笑いが止まらないよ」

臨也は口に出して呟くと、再び指先を忙しなく動かし始めた。
画面を埋めるウインドウで、平和島静雄の文字はすぐに見えなくなってしまう。
替わりに埋め尽くすのは、池袋、――彼の町の映像や噂話、果ては町外れの廃墟にたむろするカラーギャングの写真である。

それらのウインドウの上に、とあるチャットルームの画面があった。
仮面舞踏会のように、互いが誰かも知らないで彼らは噂話をつつきあう。
それはとあるカラーギャングたちの抗争の話のようだった。

抗争の原因は、どうやら妖しげな薬――麻薬らしい。
やけに話にのめりこむ2人の参加者がいる。興味はあるが、自分とはかかわりのない話…そういう態度でいるが、隠し通せていないところが子供である。

臨也は薄く微笑みながら、キーを弾く。
鍵盤に置かれたピアノ奏者のそれのように、滑らかに迷いがない指先。
曲調は劇的に変わる。

臨也は囁きかけた。
さあ、歌おうか。愛する音符たち。
曲を操るのは譜面でも音符でもない、それを弾く人間なのだ。











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