春。
二日つづいた春雨のために、桜が一斉に舞い始めた4月半ばことである。

池袋で、とある麻薬組織が一斉に検挙された。

主犯格はまだ学生であることが、ニュースを大きく取り上げるキッカケとなった。しかし話題は徐々に組織の特異性に移っていく。
幹部の誰一人互いに顔を知らないネットを媒体とした組織。
誰でも気軽に登録できる池袋を根城にした団体であり、その組織の規模は他に類を見ない。
学生、主婦、教師、会社員、警察官。老若男女、職業すらも関連性のない組織に、いつの間にか麻薬組織が深く根をはり、メールと言うもっとも重要な連絡手段を掌握していたものと思われた。

メールを解して行われる取引は極端にリスクが少なく、見返りは大きい。果てには小学生までもが知らぬ間に麻薬の運び人として使われるという事態に、世間は大いに衝撃を受けた。
どこまでが麻薬取締法で逮捕されることとなるのか、またそういう組織が身近で成り立つという恐ろしさに注目があつまったのである。

とはいえ、今回の検挙は成り立った背景にはスパイとして入り込んだ対抗勢力の人間の『内部告発』が引き金になった。『誰でも受け入れる』というシステムがあだとなり、結果自ら爆弾を抱え自爆した形である。
しかし、池袋をホームグラウンドとするものたちにとって、その組織のありようは、否応なく昔存在した彼の組織を思い起こさせた。

『ダラーズ』

幾人もが記憶の底で風化させ、また幾人もが忘れられない名前である。


――そんなニュースを流すテレビを横目にしながら、新羅は眉根を寄せた。
「きみさぁ、いつまで若いつもりなの」
数年前からわずかに伸びた髪を一つに束ね、相変わらずの白衣を翻す姿を、臨也はちらとも見ない。
「やめなよもう、そろそろ真剣にそういうの恥ずかしいと思うよ」
「うるさいよ新羅。黙って治療できないわけ」
臨也がいうのに、新羅はふかぶかとため息をついた。『呆れた』という意思表示だ。
恐れ多くもセルティをタクシー代わりにしたことも言葉の辛辣さに拍車をかけている。もちろん臨也は歯牙にもかけない。
鋭い金属音がする。振り返った新羅が持っているのは、医療用の縫い針だった。
対する臨也は、人様の家のソファベッドに無防備に寝転んでいる。新羅の実験体になる危機をかんじているわけではなさそうだ。
だが、その頬はいつもより白く青い。三十路になってから更にシャープになった顔のラインは、心なしややつれたようにも見える。
肌には汗。
何より、黒いシャツですらそれとわかるほど、腹が血でぐっしょりと濡れていた。

「刺されたんだって?後ろから、油断したところをブスッと」
「いやあ、まさかまるきり眼中にもなかった子があんなことしてくるなんて思わなかったからさ」
「臨也ってさ、あんまり学習能力ないよね」
ちょっと前にもこんなことなかった?と新羅が問う。
臨也は肩をすくめて答えた。
「全部予想通りなんてつまらないじゃないか。俺の想像を超える動きをする、だから人間っていうやつは面白いのさ」
「はいはい。わかったからちょっと手を上げてくれる?傷口ひらくように」
もちろん傷口を見るためなので、臨也は大人しく従った。
その瞬間痛みが走ったのか、顔をしかめた臨也に、新羅は目もくれずにいう。
「これ、刺してきたの。検挙された組織の人間?」
「…っ、うん。今回逮捕された子の弟なんだって」

じゅうよんさい、とやけに滑らかな口調でいうのに、新羅は小さく笑った。

「相変わらず君ってば胸が悪くなるくらい下種だなぁ」
「別に、お兄ちゃんをヒーローか何かみたいに崇め奉ってたから、そのヒーローがこれから社会の中でいかにゴミクズみたいに生きていくかを教えてあげただけだよ」

臨也のことだから、懇切丁寧に14の子供にもわかる言葉で説明してあげたのに違いなかった。
「よくいうよ。どうせ今回のことも君が火種のくせに」
「新羅は俺を買いかぶりすぎだね。特に大きく関ったりはしてないよ。まあ、情報屋としていくつか仕事はさせてもらったけど」
その情報の売り方が他者の疑心暗鬼を煽り、友人を裏切らせ、幾人もの人を惑わせて今回の結果に至ったことは疑いようもなかった。
けれど、今更だ。
新羅は口をつぐんで臨也の傷口を覗き込んだ。

吸い付くような滑らかな肌からは、ぱっくりとどす赤い肉が見えている。まるで折原臨也自身のような、生々しい色だ。
雪のように無垢な肌色と毒々しい肉の色は、計算しつくされた対比のようで、精密さは気持ち悪くすらある。

新羅は医療用の針を皮膚の淵に刺し、縫っていく。先だって消毒をした際に、局部麻酔も打っておいたのだが、それでも体には肌と肉を刺し貫く感触が響いているはずである。
わずかに体を揺らす以外、臨也はじっと口をつぐんでいた。
うっすらと汗ばんでいてもなお、人形めいた美しさで目を伏せる姿に、新羅は微笑みを浮かべた。

「でも、今回検挙された人数にしては随分派手にマスコミが動いたね」
臨也はちらと新羅を見た。
「確かに特異な例ではあるけれど、麻薬組織にしてみれば規模は小さいほうだろう?それにほら、きちんと捕まえる事のできる人数なんか、これからもっと減るだろうし」
つまり、麻薬保持の意図の有無である。知らず知らずのうちに麻薬の運び人とされていた、と訴えてこられれば、立証の難しい件が山のようにあるとニュースは伝えている。
操作は長引くだろうし、今の社会背景とかね合わせれば長い間マスコミの取り上げやすい題材である事は確かである。
それについて臨也はなにも言わなかった。
ただ黙って、再び目を伏せる。
新羅はささやいた。

「次は何をたくらんでるんだい?臨也」
「…新羅は要らないところで鋭いな」

口元に浮かぶのは苦笑である。
再びまみえた赤い目は、ちょっと悪戯っぽく笑っている。
「黙ってみていなよ。傍観者から舞台に上がる気はないんだろう?」
「君の手のひらで踊るのはごめんだよ?でもね、嫌な予感というのは潰しておかないと後で困るって、僕は過日色々学んだんだ。でないとセルティとの幸せ生活に支障が出る」
「心配しなくても、今回はお前達に関係ない騒ぎしか起こらないよ」
何か起こる、と認めたも同然の言葉を、新羅はじっとみつめた。つまり、この事件に関連しているものの、池袋が直接火種になるわけではないのか?
ただ、新羅にはここ最近の異常なまでのマスコミの反応が気になっていた。

――それが、何かの布石のような気がして。

つまり、これはまだ本番なんかではないのだ。
もっと大きな騒ぎがここで起こる。
そして多分、――あの男に関係のあるものが大きく動く。
もしかしたら誰かの人生の居場所を、この男が大きくゆがめることになるのかもしれない。
新羅はいった。

「ねえ、臨也。こんなことしてもこの騒ぎが静雄の耳に入る可能性って、凄く低いと思うよ」
「はぁ?何の話――」
「静雄、今テレビもネットも見れない環境にいるからね」
臨也は一瞬黙り、
「…なんでそこでシズちゃんが出てくるのか、っていう質問は不愉快な回答しか得られなさそうだからおいておいて…」
鼻で笑った。
「別にシズちゃんの耳に届こうがとどくまいが、俺はどっちでもいいんだけど」
「いや、ほんとに。電話だって驚きの家電一本だけだからね。テレビもパソコンも携帯だって通じない。このご時勢にだよ」
「だから俺は別に…」
と臨也が言うのを遮って、新羅は「臨也」とやけに静かな声で囁いた。

「静雄はもう池袋には帰らないつもりだよ。例え誰が呼んだって、誰が助けを請うたって」

僕が考えうる限り、絶対ね。
新羅は視線を、ふとよそにやる。
そこにはひとつスツールがあって、臨也が寝そべるそれとは違う、真っ白なものだ。
半年ほど前、平和島静雄が所在無さ気にそこに座っていた姿を、新羅は思い出していた。



***



緑をぬぎすてた木々が鮮やかな橙色に様変わりした季節だったとおもう。
その日は特に冷え込んでいて、静雄はいつものバーテン服にマフラーを装備して新羅の家を訪ねてきた。
「よる年の波にはかてねーんだよ」
数年前はこの時期でもバーテン服一枚だったことを指摘すれば、静雄は怒る事もなくそういった。
集金が早く終わったらしい。まだ昼と夕方の境目だというのに仕事の帰りなのだという。すこし疲れた顔をしていて、そんな顔の彼は珍しいと新羅はすこし気になった。
セルティは仕事であることを事前に静雄に伝えたが、彼は訪ねてきた。
多分、『その話』はもともと新羅にするつもりだったのだろう。

静雄はソファではなくスツールに腰をかけて、出されたココアを啜った。
「新羅」
静雄はやけに真剣な顔をしていった。
「おまえ、…宝くじって当たったことあるか?」
「宝くじ?」
何の話が出てくるのかと思いきやそんな話題で、ひどく面食らった覚えがある。
「セルティが好きでちょこちょこ買ってくるから、1000円とか1万円くらいなら、何回かあるけど」
「そうか…」
珍しく歯切れが悪い。
目を伏せる静雄に、心配を通り越して薄気味悪さすら覚える。新羅は眉をしかめた。
「どうしたの?」
「……」
静雄は答えずに、両手でもったコップの、底に残るココアをじっとみつめていた。
いくつ分針が進む音をきいただろう。
やがて、静雄が顔を上げる。
その目の中にゆらゆらと揺れるものが見えて、新羅は軽く息を飲んだ。

「こないだ、父さんのほうの叔父が死んだ」
「え。…あ、そうなの?それは…」

ご愁傷様、と句を繋げた新羅に、静雄はすこし首を振った。
「一度もあってねーから、特別悲しいとか、ねえんだけどな」
「うん」
「その人、……なんていうかあれだ。遺産?父さんのほかに身寄りがなかったらしくて、うちに全部相続されるらしい」
「そうなんだ」
宝くじの流れからで、新羅にはそれが結構な額なのだと想像がついた。
「へー。それは、いっちゃあなんだけど棚ぼただねぇ」
静雄はうっすらと頷いた。新羅は常識はあるが、遠慮がない。アッサリと聞いた。
「で、いくらぐらいなの?」
静雄はちら、と目線を他所に向けた。
「…5億くらいだって聞いてる」
「………」
一瞬、沈黙があたりを支配した。
「資産価値も全部含めての値段で、そこから更に相続税が引かれるって話だけどな」
「はー……。それにしたって、5億って」
正気でいられる値段ではない。普通、転がり込んできたら狂喜乱舞してもおかしくない。
静雄は一つ頷いて、視線を俯けた。
新羅は、驚きから立ち直ると、じっと静雄をみた。

「それで?」
「あ?」
「まだ、話の続きがあるんだろ?君が自慢したがってるふうには見えないし、あったことのない叔父さんの死にそこまで暗い顔できるほど、人情味溢れるやつだなんて思ってないからね」

喧嘩を売られているのか一瞬考えたようだが、新羅の言いようは常に失礼だと納得したのか、静雄は頷いた。
高校時代からの進化を感じて、新羅はひそかに感動した。
「父さんが」
静雄は新羅の目をみて、口を開いた。
「その金は借金返済に充てろって、いってくれる」
「……」
「俺の借金返して、それから残りの金は全部貯金して、なんかあったときのために使えって言うんだ。自分たちは十分老後の蓄えもあるし、いいからって」
新羅は、静雄が壊したものの弁償代が、家をまるごと1個新築できるほど残っているのを知っていた。多分、これから死ぬまで働き続けてやっと返せるだけの額だ。
30を過ぎて給料が上がったとはいえ、静雄の稼ぎでは厳しいのだろうことも予測はついていたが、あえて口にしたことはない。
新羅は、黙って聞いていたけれど、

「新羅」
ふと目を瞠った。静雄が言う。
「俺な、それ聞いた瞬間、もういいかと思ったんだ」
「静雄…?」

静雄が小さく口元に笑みを浮かべていて、新羅は訳もなく焦燥にかられた。
その笑みが静雄らしからぬ、儚くとけそうな、弱弱しいものだったからだ。
「田舎に住みたいっていいながら、俺はずっと池袋でいきてきた。この、日本のどこよりも人が多いんじゃねぇかって言う、人ごみの中で」
「それは…」
「いろんなことを言い訳にしてきたんだと思う。でもな、結局俺は、どこかで憧れてたんだ。こんだけたくさんいるんだから、一人くらいいるんじゃねぇかって。探してたんだ」
こんな俺を、愛してくれる誰かを。

新羅の喉から声が奪われ、静雄は目を細めた。
新羅の中でどんどん焦燥が膨らんだが、言葉にはならない。
静雄は胸ポケットからタバコを取り出し、一本銜えて百円ライターで火をつける。
値上がりしたタバコを控えているといっていた。この告白が静雄にとっても大きな負荷がかかっているということだ。
静雄はやがて、ぽつりといった。
「叔父さん、変わりもんだったらしくてな。山奥に一人で住んでたんだと。バスも電車も通ってねぇ、観光客だって来ないような壮絶な山奥らしい」
煙が天井に到達し、円を描くように広がって、端から消える。
静雄は灰皿にそれを置いて、新羅を見つめた。

「俺は、そこに行こうと思ってる」









top//next/