このところ、まともに眠っていなかったツケだ。
臨也は、静雄の伸びた髪をなでながら、目を伏せた。
襟足は染めた金髪で、いたくさわり心地が悪い。
繰り返し体を貪られ精も根も尽き果てた静雄は、文字通り昏倒するように眠りについている。
風呂に入れて、薄い襦袢だけを羽織らせた体は、ところどころ薄い痣が浮いている以外は、情事の名残を残していない。

もうとっくに朝日は昇り、中天に指しかかろうとする時刻だ。
臨也は今しがた目を覚ましてからずっと、こうして静雄の寝顔を見ている。
もうひとつの布団はどろどろにしてしまったから、2人で一つの布団に寝そべっていた。
ここに来る前には、脳さえもぐらつきそうな疲れを感じていたのに、今は名残が時折瞼を重くするだけだ。
臨也は平和島幽を訪ねてからこの数ヶ月、昼も夜もないほど色々と走り回っていた。
多くの理由は鬼のように仕事をこなしたせいであるが、ここひと月の理由はそればかりとはいえない。
――聖辺ルリの身の潔白を証明するために走り回っていたのである。

幽の部屋を辞した後、臨也は努めて『それ』についての事柄を忘れようとした。
けれど、幽と言う最強の連絡手段を失した以上、ほかに静雄を池袋までひきずり出せるほどのネタはない。
そう考える自分が嫌でたまらなかったし、誰かにそれを知られることを心底恐れた。
したり顔でそれを指摘する奴がいたら、きっと首を括らせて相手を殺していただろう。自信がある。
だが、いくら忘れようとしても静雄が消え、二度とまみえない事実はじわじわと臨也を侵食した。
食事の量は減り、睡眠時間は削られ、何も考えずぼんやりする時間が増えた。自然、仕事でもミスは増え、自己嫌悪とわけのわからない焦燥はつのる。終いに波江に睡眠薬を手渡された時は、言葉にならないほど打ちのめされた。

「もう限界でしょう」

波江は涼やかな目元に、わずかばかりの憐憫と軽蔑をこめてそういった。
その瞳は、そのまま臨也が自分に対して送りたいもの、そのものだった。
――もう限界だ。
認めたところで、何も変わらないことはわかっていた。
今まで散々苦しめてきた臨也を静雄が許すはずがなかったし、逆に簡単に許されるなど臨也が許せなかった。
つまるところ、臨也は今まで築き上た静雄との関係を壊せるとも思っていなかったし、壊したくもなかったのである。
けれど、そういっていられる段階は、控えめに見えても通り過ぎていた。
ただ、何か行動を起さなければ、臨也は焦燥で狂い死ぬと、本気で慄いたのだ。

「催淫剤と、筋弛緩剤と、あと腸壁がぬれる薬をくれ」

数日後たずねた新羅は、そういった臨也をダメな弟を見るような目でみつめた。
「あのさ、臨也。もうその恥も衒いもないラインナップを何に使うかは聞かないからさ、せめて言わせてよ。それ目の下に隈つくっていう台詞?」
「ないの」
「あるよ。そうじゃなくて、まず適切な睡眠をとってから…」
「よこさないと酷い目みるぞ。見てのとおり、俺には今まったく余裕がない」
新羅はそこで、ふかぶかとため息をついた。
出された珈琲がゆれて波紋を描くかとおもうほど、深いため息だった。
「…あのね、臨也。今うちにあるもので一番強い弛緩剤は本来なら手術につかうようなもので、静雄に効果があるとわかってるのは確かだよ」
「それで?」
「針も通さない静雄に、それを摂取させようと思うと、口径しかない。君、静雄にどうやってそれを飲ませるつもりだい?」
「……」
明らかに頭が回っていない臨也に、新羅はやれやれと首を振った。

「答えは簡単だ。――今僕がしたみたいに、香りの強い飲み物に混ぜるしかないんだよ」

臨也の視界がぐらりとゆれ、その瞬間に臨也は昏倒した。
めずらしく珈琲など出してくるから変だと思ったんだ、と後からいっても仕方のないことである。

臨也が次に目を覚ましたのは、新羅の家のソファの上だった。かけられた毛布がなければ、肌寒いほどだ。クーラーが効かせてあるのだ。
ふる、と身を震わせた臨也に、

「あ、おきたかい?」

台所からでてきた新羅が、のん気にいう。
「一昼夜寝てたんだよ。一口しか飲まないから、どうかと思ったけど、しこたま睡眠薬ぶちこんどいてよかった」
薬のせいか、眠りすぎたせいか、かなづちで打ち付けたような頭痛がする。
呻く臨也の前に、新羅は水の入ったコップをおいた。
「今度は何も入ってないよ」
胡乱な眼差しの臨也に、新羅は朗らかに笑う。
「それで、臨也。君が眠る前の質問だけどね」
「……なに」
「どうやって薬を摂取させるか」
「ああ」
臨也はコップの水を飲み干して、ひび割れた声で言った。
「口径摂取させればいいんだろう?お前が実地でしてくれたみたいに」
「そうそう。つまり静雄に近づかないと無理なわけだけど」
新羅はにっこりと笑った。
「君、静雄にどうやって近づく気なの?」
「……」
臨也の脳裏に、怒れる装甲車と化した静雄が容易くうかぶ。
「これがあの情報屋折原臨也かと思うと、嘆かわしさで涙がでるね」
「うるさい」
ふてくされて言うと、新羅はやっぱり笑っていった。
「でもまあもしかしたら?遠路はるばるやってきた人間だと思えば奇跡的に受けれてくれるかもしれないけどね。ただ少なくとも、弟を陥れた人間に可能性はないんじゃない」
「…ニュースみないし、誰も今回の事を耳に入れる奴はいないって、お前が言ったんじゃなかったっけ?」
「あの時はね。でも今は、僕がいるもの」
「……」
新羅はやっぱり笑っている。

臨也はため息をついた。
「…おまえ、なんか不機嫌だとおもってたけど、やっぱり怒ってるのか」
「人の忠告を無視して、あんなやり方した挙句、駒につかった聖辺ルリを放っておいちゃ、不機嫌にもなるだろ?」
だって聖辺ルリはセルティのお気に入りのスターなんだから、と新羅は言う。
「聖辺ルリの騒動が取りざたされてすぐ、幽君から連絡があって、静雄には決して耳に入れないようにと頼まれたんだ。彼は心配かけたくないからっていってたけど、あのタイミングじゃ君が関ってないほうが嘘だよね」
「それで?おまえは未だに黙ってやってるわけ」
「だって連絡したところで、静雄の心中に波風たてるだけで、何も変わらないじゃないか。静雄はこないし、聖辺ルリも逮捕される」
新羅は笑顔を引っ込めて、ほう、とため息をついた。
「ここのところの、聖辺ルリへのバッシングは見ててひどいよ。それに心を痛めるセルティも痛々しくて見ていられない」
これで、君に対して何も思うところがないなんてあるはずないよね?と新羅が手のひら返したように笑うのに、臨也はため息をついた。
ふと、開いた窓から吹き込んだ風が、清かに街の音を運ぶ。
新羅の顔から、笑みが消える。

「君が、なんにせよ静雄に会いに行くときめたなら、それはすごい進歩だと俺は思うよ」
「何しに行くかわかっててそれをいうの?」
「結局静雄に関らずにはおれないと、証明してるのと同じだもの。それに多分、そういう人間がいると知るは静雄にとって悪い事じゃないと、僕は思うから」
ぶすくれた臨也に、新羅は小さく笑った。

「こう答えが返ってくるのがわかっていて、それを問わずにおれない。君のそういうところが、僕は結構好きだよ」
「…それはどうも。それで?」

ちら、と臨也が視線をよこすのに、新羅は口元だけで笑った。
「聖辺ルリに関する後始末をきちんとするなら、静雄には連絡しないでおくよ。もちろん、セルティが悲しまない方向で片をつけてね」
「……薬代もふくめるぞ」
「かまわないよ」
新羅は目を細めた。
「餞に丁度いい」

自分が関っていることを幽に知られるなど、絶対にごめんだったから情報の漏洩につぐ漏洩という形で聖辺ルリが有利になる情報をどんどん開示した。当然嘘や隠蔽がばれた相手のプロダクションを潰してしまったが、結果オーライだ。身から出た錆びである。
そうしてひと月と少しで事態を収めた臨也は、疲労困憊の体で、この家にやってきた。
懐に静雄を犯すための薬をしこんで。
その手段は15年、不思議と一度だって試そうと思いもしなかった。
いつだってこっちを振り向かせるのに必死で、けれど同時に対等でありたかったのだ。自分のほうが静雄にやっきになっているなんて、絶対知られるわけにいかなかった。
自分たちは池袋という街をめぐって、互いにどうしても相手を許容できないふたりぼっちの天敵同士であるべきだった。
けれど、静雄が戦線を離脱し、二度と戦うつもりがないのなら、関りかたを変えねばならない。
時が静雄をゆがめたのなら、自分も変わらねばならない。置いていかれるわけには、なんとしてもゆかなかった。
憎くてたまらない人間に、望んだように執着されているとしって、死ぬまで臨也のことを忘れられなくなればいい。
それは間違いなく、臨也の臨也なりの譲歩だ。
文字通り、身を削るような譲歩だった。
――それ以外にどうすればいいのかなんて、わからなかった。ただ、会わずに済ますことだけはどうしてもできない。それだけはわかっていた。
多分、本当はただこのまま静雄に忘れ去られる事だけが、どうしても許せなかったのだと。知っていたけれど気づかないフリをして、臨也は黙々と山道を歩く。

この家に来る前にすでに気力を大幅に削られていたのに、あろうことかつり橋で命の危険に晒された。
ひと目見てボロいとは思っていたが、まさか踏んだ瞬間踏み抜く事になろうとは、思いもしない。
静雄に続く、唯一つの橋である。
まるで余人が立ち入るのを拒むようなその橋に、宙ぶらりんになった臨也が抱いたのは、間違いなく苛立ちだった。

(こんな橋ごときで俺のことを拒めると思ったら大間違いなんだよ――!)

今考えると、その理屈はどうなの、と思わない。しかし、そのときは本気で橋に殺意を覚えた。
持ち前の身体能力と、執念と、最後の気力で、臨也はその家にたどり着いた。多分、臨也でなければ死んでいただろう。
そうして静雄を見た瞬間、臨也のHPはことごとく尽き果てたのである。

――再会した静雄は、相変わらず最低の人間だった。

人がこれだけ大変な思いをして、自慢じゃないが30年かけて積み上げた高い自尊心をなげうってまで求める、静雄と言う人間を、あろうことか抹殺しようとしていたのだから。
体に合わない着物、ひとつも新しいものがない家具、食器、先代の可愛がった犬達。
まるで殉死者たちだ。
それらに囲まれて、穏やかにすごす静雄は、別人になりたがっていた。
先代の行動をなぞる事でなりかわり、平和島静雄を消していくかのようだった。きれることも、憎む事もない、ただ穏やかな、森の木のような人。
臨也という天敵をも、消えてしまったような顔をする。

ふざけるな、と思った。

静雄に関り、彼を友人と、兄と、息子と呼ぶ人すべてを馬鹿にしている。
もちろん他人のために怒るなんて事をしない臨也は、自分を踏みにじって嘲られたように感じ、そのことに心底腹を立てた。結局夕食に薬を混ぜなかったのは、良心の呵責でもなんでもなく、たんにタイミングを失しただけだ。

それが、

「……なにがどう転ぶか、わからないものだねぇ」

臨也は静雄の髪をひと房すくって、痛んだ金髪に口づけた。
平和島静雄。
この髪が光る鬣のような、人とも獣ともつかない男。今は疲れ果てて眠る、ただのプリン頭だ。
そのとき、静雄の瞼が震えて、そっとひらいた。
何度も瞬きをするのは、涙をこぼしすぎた目が、はれているせいだろう。
静雄の目が、ゆっくりと臨也に焦点を結ぶ。
寝ぼけ眼の静雄が、さらに2回、瞬きをしてそれから、はっとしたように体を起こした。
「ノミ蟲…――ッ……!?」
そして、表情と体を固めて、布団に沈む。
「シズちゃん…?」
体を起こした臨也は、静雄の顔をのぞきこんで首を傾げた。
静雄は布団に突っ伏して肩を震わせている。
襦袢を羽織らせただけの体は、肌が透けて見えるので、障子から日の光が刺す今時分、腰の細さが目立つ姿勢は正直に言ってしまえばいやらしかった。
その体がどのようにくねるか、さまざまと見た後だから特に。

「シズちゃ…」
「……黙れ」
「は?」
「いい、いましゃべんな思い出した」

呻くように言う。その顔が林檎よりも赤い。可愛そうに、耳の後ろまで真っ赤だ。ざまあみろ、と笑いがこみ上げる。
恥ずかしさのあまり動けないでいる静雄は、それでも臨也の喉を鳴らす音に眉を吊り上げて、のろのろと体を起こし、――再び沈んだ。
「い……」
「い?」
「こし、いってえ…」
臨也はきょとんとして、それから大いに納得した。
「そりゃ、あんだけやればねぇ」
多分、人には言えない場所も痛いはずだ。
声だって、語尾が掠れている。
睨みつけてくる静雄の目は、まだ赤い。殺人光線でも出す気だろうか。
爛々と殺気が篭っているのに、臨也はちいとも怖くなかった。
ただ、昨晩見慣れたアングルだなぁとぼんやり思う。
側に用意していた薬を手にとって、アルミからぷちりと一粒取り出す。

「ほら、口あいて」
顎に手をやって、すくうと、口の中に錠剤を放り込む。
「んむ…っ」
「心配しなくても、ただの鎮痛剤だよ」
ペットボトルをあいて口に突っ込んでやれば、静雄は不精不精ながら、大人しく水を飲みだした。手の中のボトルを奪い取られた臨也は、一心不乱に水を飲む静雄をみつめ、ふ、と笑った。空気がゆれる。
静雄が怪訝そうにこちらを伺う。
その目を、ゆがめたくちびるで笑ってやった。

「いい格好。さんざんやられましたって感じ」
「……ッんな、…ッ!げほっ!」

むせた静雄は、自分の格好を省みて一気に真っ赤になった。
ペットボトルを臨也の顔面に向かって投げ出し(ありえない)、あわてたように掛け布団を全て奪って体にまきつける。そうして、潤んだ目で睨みつけてくる仕草は、とても30の男のモノとは思えない。弱った獣が羞恥を抱えて震えている。
ぼさぼさになった髪が布団からのぞいていて、腫れた目元や熟れた頬にかかっている。薄い水の膜が張った目は、光の粒を反射した。
馬鹿にしようとした声が絡まって、こく、とのどが鳴った。

「…蓑虫みたい」

それでも憎まれ口は口をついて出る。長年の習慣は、そう簡単に倒せまいとどこか安心して、鼻で笑った。
「殺す」
「やってみろよばーか」
うなる静雄の肩を捕まえて、ころりと布団に倒した。体が痛いせいか、それとも臨也の手が優しい事もあってか、静雄はろくに抵抗する事もなく転がった。
その拍子に布団から白い足が、ふくらはぎまでこぼれ出る。

(うわあ、ナニソレ。ワザとかよこのやろう)

小さな舌打ちがもれた。
散々なぶった肌をみるのは刺激が強い。こちらばかり肌を求めるのは、癪に障った。
乱暴な手つきで布団をかけなおす。
「……?」
目だけを出した静雄が、なんのつもりだ?と伺ってくる。
その視線に気づかないフリをした。
静雄は怪訝な顔をしていたが、やがて考えるのを諦めたらしい。
布団の中で体を横に倒し、そっと目を伏せる。臨也は掛け布団をすこしずらし、静雄の頭を出して呼吸しやすくしてやった。

「のみむし…」
「みのむしは黙ってねろよ」

静雄の髪をなでた。
手櫛で整えてやっているようにも見えるし、ただなでているようにも見える。
髪が光を弾く。梳くたびに何かあまやかなものが胸に忍び寄ってくる。眉をしかめた。そうでもしなければ、何か口走りそうだ。
手を止めると、静雄が不思議そうに目を瞬く。その中身が鳥の雛ほど可愛いものではないと知っている。知っているのに。

(ほんと、馬鹿みたい)

胸中で詰る声は、自覚せずにおれないほど、甘い。
臨也は静雄の頭を、布団の上から頭を押さえつけて沈めた。
「……!」
「目、閉じて。じきに鎮痛剤がきいてくるさ」
鎮痛剤には眠気を誘発するものがある。
それに、いまの静雄にはどう控えめに見ても休息が必要だった。
見ていれば眠りづらいだろう。臨也がたちあがり、寝間を出ようとした瞬間だ。
足首を強い力で引っつかまれる。

「うわ……!?」

驚いて振り返れば、布団から伸びた静雄の手が足首を掴んでいた。
「なん…」
「……、やぶんじゃねぇぞ、約束」
水分をとったせいだろうか。先ほどより滑らかな、どすの聞いた声がきこえた。
足首をひねりつぶされるんじゃなかと、ぎょっとした臨也は、
「あんなことまでしてものにしたんだ。…てめぇはもう、俺のだろうが」
今度は臨也が目を瞠る番だった。
赤い目が瞬きをする。

波紋が広がるような、一瞬の沈黙。

くつ、と臨也の喉が鳴った。
日の光を背にして、臨也は笑う。何の含みも、衒いも、企みもない。眉根を寄せて、目を細めて、ただ笑った。
そして、再び静雄の枕元にしゃがむと、頬杖をついて布団お化けを見下ろす。

「……人間というのは、実に馬鹿な生き物だね」

囁く声は意図したより甘くひびいた。

「あんな行為ひとつで、何年も手に入らなかったものを手に入れた気になる。頭ではそんなことありえないと理解できてるのに」

静雄が、目を瞠った。瞳の奥がどの感情を表すのか選び損ねて、揺れる。
臨也は小さく笑った。

「もう寝な。…いくら化け物の君でも、さすがに体力も空だろ?」

可哀相な女の子を篭絡する時の声音に似ていたけれど、別物なのかそうではないのか、臨也にももう判別がつかない。
ただ、静雄はやがて目を細めて、瞳を閉じた。
髪をすいてやったのが、ただ気持ちよかっただけかもしれないけれど、どこか満足げに見えた。


本当にこの化け物は、馬鹿の癖に変に鋭いのが、腹立たしいのだ。










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