【ひとつぶの、】

おやおや!どうやら今日は運がいいらしい。…いや、悪いのか?

折原臨也は、雑踏のなかに、みなれた金色の頭を見つけてしのび笑った。
距離にして、10mもない。1ブロック分の距離だ。
ヒヨコみたいにひょこひょこと、目立つたらない。まぁ中身もヒヨコ並みだから、あんな色に染めてるんだろうけど。
頭一つ分周りより飛びぬけて高いせいもあるが、警戒色である金色は一際目立った。
最強寒波が襲来している真っ只中だ。周りは皆、黒や茶色と、服装から髪の色まで落ち着いている。
つい一週間前まで、バレンタインでにぎわっていた街の装飾も、今はもうすっかり鳴りを潜めていた。
静雄の頭だけが、周りの風景からおいてけぼりだ。

「さーて、珍しく気づいてないみたいだし、今日はこのまま退散しようかな」

口では苦くそんなことを言うくせに、目は楽しそうに静雄をうかがっている。
今日は上司と一緒ではないらしい。この時間は仕事なのに、クビにでもなったのかなー、なればいいのに、と思いながらみつめていた。
そのときだ。
静雄の頭が天を仰いだ。そして、何かを躊躇うようにゆっくりと振り返る。
(あ、やば…い、)
思考する間もない。ぱちんと、火花が散るように視線が交わる。
背筋を、ぞわぞわと、何かが駆け上る。

「……あーあ、見つかっちゃった」

呟きは雑踏にさらわれて、地面に落ちる。
膝にぐっと力を込める。すぐにでも逃げられるようにだ。
あの眠たそうな目がカッと見開かれ、マスクメロンみたいな青筋が浮かび、ざわめきがかき消される。「いぃぃざぁぁぁあやぁぁぁーーー!!」という、ライオンの咆哮みたいなあの声で。

「……って、え?」

臨也は目を瞬いた。
あろうことか、静雄が、視線をそらしたのだ。
気づかなかった?そんなはずはない。
これ以上ないほどはっきりと、目が合ったのだ。
そもそも、臨也が池袋駅に降り立った瞬間に「臭ぇ」と鼻をうごめかす男だ。
その可能性は限りなく低かった。

「……ははーん?」

臨也は口元にいやぁな笑みを浮かべる。新羅が見たら笑顔で「うわぁゲスいね!」と言いそうなそれだ。
臨也は、軽い足取りで人の合間をぬった。
歩く事すら困難な池袋の雑踏。その中をぶつかることもなく、確実に距離をつめるのは実はかなり難しい。
それを臨也は、脳みそで別のことを考えながら、意識を静雄に集中しながら、やってのける。
こつん、と靴のかかとが石畳をならした。
「やあ、シズちゃん!無視するなんてひどいじゃない!」
肩を叩いて、その瞬間臨也はしゃがみ込んだ。
すぐ頭の上を、殺人級のスピードで、静雄の腕が通り過ぎる……。

「あれ?」

通り過ぎない?

臨也が顔を上げると、サングラスをずらして、静雄が怪訝そうにこちらを見下ろしていた。
「……なんだてめぇ?」
薄い茶色の目が、冬ばれの太陽に照らされて美しく透き通る。

「シズちゃん?」
「ああ?誰がシズちゃんだ」

静雄のこめかみにピシリ、と青筋が浮かぶ。
が、何か妙な違和感が拭えない。
ほんのわずか、不思議に思いながら、それをおくびにも出さず臨也はにたぁと微笑んだ。

「一週間ぶりだね?元気にしてた?心身ともに健康?」
「……ああ?」
「だからさぁ、さすがに俺でも気遣ってあげてるんだよ。何もわからないフリかな?それとももう忘れたって意思表示かな?」
「……何言ってんだてめぇ」

んんん?

臨也は笑顔のまま、内心にいくつも疑問符を浮かべる。
が、疑問をそのまま顔に出すようでは情報屋などやってられない。

「ちょっとさーシズちゃん、惚けるのもいい加減にしなよ。一週間前の事だよ?さすがの鳥頭でも覚えてないはずないでしょ?」

さすがにこれで怒りの咆哮が聞けるだろう。
そう思っていた臨也のあては、この瞬間大きく外れる事になる。
静雄はなぜか、ものすごく怪訝な顔をして「一週間?」と首を傾げたのだ。
この反応は、マジだ。演技などできる器用な男ではない。

「シズ…」
「さっきから意味わかんねーことぺらぺらと、アンタ、もしかして人違いしてんじゃねぇか?」

あんた。

静雄の口から、臨也をさして聞いたことのない指示語である。
臨也は今度こそ、情報屋の仮面をかなぐり捨て、ぎょっとした。
そんな臨也を見て、静雄は心底不審げな顔をしていったのだ。

「どこの誰だかしらねーが、人の顔くらい確かめて声かけろよ。あと、そのしゃべり方よしたほうがいいぜ。なんつーか、しんそこ、気にいらねぇ」

地を這うような声だが、咆哮には程遠い。あげく、こう付け足されたのだ。

「まあ余計なお世話かも知れねーけどな」

顎がおちる、という体験を、臨也は産まれて初めてすることになった。



***



「はぁ、それで俺のところにきた、と?」

その日新羅は、自分へのご褒美にちょっといい珈琲をいれたばかりだった。もちろん、セルティの仕事帰りを待つ自分へのご褒美だ。
だから、臨也の前にも静雄の前にも、珈琲は見当たらなかった。
しかし2人とも、それを気にした様子もない。
特に臨也は、紙のように白い顔をしている。
新羅はただ自堕落にまつのではなく、部屋の掃除も洗濯も、綺麗に仕上げて、さきほど冬の寒さに負けず空気の入れ替えをしたばかりだ。おかげですこし肌寒い。
けれど臨也の肌の白さはそれとは関係ないように見えた。
静雄はどこか戸惑った顔で、新羅と臨也を見比べていた。

「おまえ、新羅のトモダチだったのか?」
「まぁ一応ね」

答えたのは新羅だ。
一層臨也の顔が白くなったのを、上目で見る。
臨也は珈琲をすする新羅を、射殺しそうな目で見た。

「…きいた?これ演技だったら俺は清水寺から飛び降りてもいいね。だってあのシズちゃんだよ、演技なんて高等技が出来ると思えない。チンパンジーがオスカー女優に選ばれるみたいなものだよ」
「おい、てめぇさっきからきいてたら、シズちゃんって俺のことかよ?」

青筋を浮かべる場所が違う。
新羅は口元に微笑を浮かべて珈琲をソーサーに戻した。

「つまり臨也、君、静雄が記憶喪失だっていってるのかい?」

臨也は頷いた。
唇が固く引き結ばれている。
新羅は静雄に視線を戻した。

「ねぇ、静雄。君、隣に座ってる彼に見覚えはない?端的に言うと、見てるだけでそこの窓から放り投げたくならないかな」
「…見覚えはねぇけど、こいつの話し方きいてたら、このちいせえ頭を握りつぶしたくはなるな」
「ふうん」

正常の範囲内だ。
目を瞬く。
静雄はやっぱりどこか困ったように新羅を見つめている。

「なあ、俺とこいつ、知り合いなのか?」
「高校からのね」
「マジか」
「ちなみに、今でも付き合いがある」

アレを付き合いと呼べるのなら、だけど。
静雄はまじまじと、臨也を見た。

「…これと?」
「ちょっと」

臨也が眉を顰める。新羅は眉一つ動かさなかった。

「まあそういいたくなる気持ちはわかるよ」
「新羅、ふざけるなよ」

臨也に凄まれて、肩をすくめる。怖い怖い。赤い目はこんな時ばかり、底の知れない海底魚のように静かに新羅を見つめる。
新羅は静雄に向き直った。

「静雄、君、自分の出身高校は言える?」
「来神」
「今の名前は?」
「来良学園」
「今の年」
「平成24年」
「弟君の名前は?」
「かすか」
「お母さんの趣味は?」
「…あみぐるみ」
「最近もらったあみぐるみは何」
「くまだろ。…多分。耳が横についてたけど」
「正解」

新羅はにっこりと笑ってみせる。
それからいくつか、プライベートな質問をした。
住所、両親の名前、去年の誕生日のセルティからのプレゼント。
「最後に」
新羅は人差し指を臨也に向けた。

「彼の名前は?」
「いざや、だろ。お前がさっき呼んでた」
「フルネームは?」

静雄は、ちらりと横目で臨也をみた。

「しらねぇ。……今日、はじめて会うやつだ」
「嘘つくなよ!」

叫んだのは臨也だ。
静雄はむっと眉値を寄せて臨也を見た。
「嘘じゃねぇ」
「馬鹿いうなよ。俺と会うのが初めてだって?」
臨也は笑おうとして失敗した。
ひたいに手を当てて、髪をかきあげる。
見開いた目が、爛々と輝いて静雄をいぬいた。

「俺のことだけ忘れただって?」
「……わりぃ」

静雄は人並みに罪悪感を覚えたらしい。眉根を寄せて謝罪をした。
平和島静雄が、折原臨也に、謝罪!

「はっ……!」

受けた衝撃は臨也のほうがはるかに大きかったらしい。
臨也はしばらく呆然として、それから喉をそらして哄笑した。

「傑作だ!意味が判らない。俺のことだけ、忘れるなんて!」
「……」
「どれだけ都合のいいつくりになってるのさ君の頭は!」
「臨也」

新羅が声をかけると、臨也は目を見開いたまま振り向いた。
「新羅」
「なに?」
「ありえるの。こんな、…こんな都合のいい記憶喪失なんて」
新羅はうーん、と唸って腕を組んだ。
「忘れたいことだけ忘れる、なんて普通は無理だね。ただ、あることのみ綺麗に記憶が消える、っていうのはままあることだよ」
「じゃあ、シズちゃんの場合、忘れたいこととその『たまたまあること』が綺麗に重なったってこと?」
「なんともいえないけど」
新羅は首を傾げた。

「詳しく調べてみないとわからないけど。一つ聞いてもいいかい?」
「なに」
「仮に、君の言うように都合のいいことが起きたする」
「……」
「なぜ、今なのか。静雄が『忘れたいこと』にいまさら強く君をカテゴライズしたキッカケに、なにか思い当たる節でもあるのかい?」

臨也の目がじっと沈黙した。
新羅は暫く待ったけれど、結局ため息をついて流してしまう。

「静雄」
困り果てた顔をしていた静雄が、呼びかけに応じた。
「なんだ」
「臨也のことを忘れたきっかけに心当たりはあるかな?」
「心当たり…」
「そう、例えば強く頭をぶつけただとか、何か体に変調があるとか」
「へんちょう」
「…変わったことって意味だよ」
臨也が囁くように付け加えた。
わかってると、煩わしそうにいった静雄は、それからふと思い至ったように目を瞬く。
「あるんだね?」
確信を持ってたずねると、静雄はうなづいた。

「関係あるかはわからねぇんだけどな。気になってることがあんだよ」
「なんだい?」
「涙が出る」

なみだ。

風がそよぐように、臨也が呟いた。
その顔がすこし驚きに彩られている。新羅も同じ事だった。
静雄と、涙。
鬼の目に涙、ということわざを思い出させるほど、似合わない。
自覚があるのか、静雄はすこし拗ねた口ぶりでいう。

「最近、寝る前になると必ず出るんだ。しかも全然とまらねぇ」
「目に異常は?」
「痛いとかはねぇけど、なんか、すげー眠くなる」
「それは毎日?」

静雄は頷いた。
ふうん、と新羅は唸って、首を傾げる。

「記憶と関係あるようには、あまり思えないけど」
「たしかめたら?」

声は臨也だ。
驚いたように、静雄が臨也を見る、新羅も少なからず驚いていた。
ただ臨也だけが、凍ったように表情を変えない。

「確かめようよ、今日」

新羅はしばらく渋っていたけれど、十分後にセルティから「今日は帰れそうにない」と電話があってからは、もう何も言わなくなった。








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