「静雄の強制的な眠りは、記憶の整理によるものだと思う」

あの日、静雄を帰した新羅は、こういった。
新羅は静雄に、いくつか質問をしただけだった。臨也を見ても殴ろうともしない静雄をだ。異常しかないだろう。
得られた結論は、静雄の記憶の中から『折原臨也』だけが綺麗にぬけおちている、ということだけだ。
誰かと、新羅の家に言ったのは覚えている。けれど、誰かまではわからない。それを疑問に思う様子も無かったという。多分ソイツは、顔見知りの来良の後輩だったり、誰かであって、帰ってしまったのだと。
ただ記憶の中には、空白だけがあったのだそうだ。
臨也はそれを、にこりともしないで聞いていた。

「記憶の整理……」
「そう。よりわけ、といってもいいかな」

つまり、臨也のことだけを選り分けて、記憶のゴミ箱に棄ててしまうのだ。
「もちろん、心にも体にも脳の容量にも相当な負担、ストレスがかかる。だから静雄はそれ以外の機能をたもっていられないまま眠りについてしまうんだ」
まるで、その間なら楽に殺せてしまえるという口ぶりだ。
頭がまるで働かなかった。
だって、何を考えればいい?
そんな無茶苦茶な話を聞かされて、どう分析しろと言うのだ。

「なんで」
「うん?」
「なんで泣いてたの」

あの男のことだ。
臨也を忘れるのが嫌だから、などという答えはまるで期待していなかった。
新羅は「そうだな」と呟いて、腕を組んだ。天井を見上げたために、電気のあかりを反射して、眼鏡がコナンみたいになっていた。
「涙には浄化作用があるって聞いたことは無い?ある種、モルヒネと同じような鎮痛効果があるとか」
「それ、眉唾だろう?」
「まあ、確固たる結論が出てるわけじゃないけどね。涙の成分を分析しても、ストレス物質っていうのはひとつも発見されてないんだ。ただ、不安や悲しみを感じたときの涙にはたんぱく質が多く含まれているという研究結果が出てたくらいかな」
「なんかそれ、ついこの間ネットのトピックスで見た気がする。不安や欝をひきおこすたんぱく質が発見されたんだろ。特に興味も無く読んでいたから、よく覚えてないけど」
新羅は一応医者だけあって、その論文を覚えていたようだ。そのことについて、いくつかの論文と精神科の観点からみた考察をならべてみせた。
「まあ、それも所詮出てきたばかりの研究結果だしどこまで信憑性があるかもわかんないけど。ただ、『泣く』という行為がストレスに与える影響には一定の評価を与えていいと思うよ」
「なんで」
「経験論」
「曖昧だな」
新羅は肩をすくめた。
「物事には、未だに科学では解明されない事が多くあるんだよ」
あんな人外を愛する男のいうことだもの、説得力がある。
「君に関する記憶を無理に一晩で整理するんだ。相当の負荷がかかる。更に問題は静雄自身がそれを不思議だと思わないことだね。脳が心を騙すんだ。ストレスなんてレベルの話じゃない」
「精神病みたいだ」
「症状だけ見ればね。でも静雄は、体も脳も、それに順応してる。心にも体にも、不安定さがまるでみられない」
つまり、平和島静雄は、健康体なのだ。
臨也のことを覚えていられない事以外、全て。
オールグリーン。
喉の奥から笑いがこみ上げた。

「傑作だ。さすがだよ、こんな展開になるなんて想像もしなかった」
「へえ、そうかい」
「だって、そうだろう?人間が、ああも都合よく記憶のなかからゴミだけを選んで棄てる事ができるかい?」
新羅はそうかな、と小首を傾げた。
「忘れるという行為は、むしろ人間にこそ必要な機能だと僕は思うけど」
「シズちゃんが、人間の進化系だとでもいうつもりかい。馬鹿ばかしい」
「それに、正しくは覚えていられないだけさ。記憶を棄てているわけではないかもしれないよ」
「何それ、なぐさめてるつもり?」
もうたくさんだ。
臨也は唇を歪めた。
「ねえ、新羅。君は俺に聞いたよね。シズちゃんが俺を忘れたがる理由に思い当たる事は無いかって」
「あるんだね」
新羅は確信を込めた目でみつめてきた。

「あるよ。大有りだ」

臨也は答えた。
「俺は一週間前、バレンタインの日さ。シズちゃんにチョコを渡した。それで告白したんだ。『ずっと好きだった。いや、これを好きと言うべきか実はよくわからないけど、ただ、これからの人生に君がいないという想像ができない』ってね」
新羅は驚きもしないでいった。
「熱烈だね」
「うん。まあ嘘だし」
臨也はアッサリと笑った。
「それから俺たちはホテルに行って、合意の上でセックスをした。俺はアイツのなかに入りながらいってあげた。『バカじゃないの。全部嘘にきまってるだろ』って」
「……とりあえずセルティの耳が汚れちゃうから、彼女には言わないでね」
新羅は顔色を変えなかった。
臨也はゆっくりと笑った。
「傑作だと思わない?あの化け物ときたら逃げたのさ。よりにもよって一番無様な手段で。この俺から!」
人外の力を嫌っているくせに、最終的にその力に頼ったのだ。なんて狡い化け物だろう。

「傷つけてやった!俺の勝ちだ!」

天井を仰ぐ。
白い喉が、肩が震え、哄笑が部屋に溢れた。
ぴたりと笑い声が泊まる。臨也はとうとう気が済んで、立ち上がった。

「帰るよ」
「うん」

新羅はアッサリと頷いた。
ただ、着替えをすませてリビングを出ようとした臨也の背中に、ひとつだけ声をかけた。
「ねえ、臨也」
振り返ると新羅はいつものように白衣のポケットに手を突っ込んでたっていた。
「狡いのは、本当に静雄なのかい?」
まるで預言者みたいにのっぺらぼうな口ぶりをしていた。



――雑踏のざわめきが耳に戻る。
吐いた息が白い。コレだけ人がいるのに、熱気の一つも生まれないのが不思議だった。
臨也は、見送った高い背中に背を向けて、駅のほうに歩き出した。
新宿に帰るのだ。
最近、あの男を見てはまっすぐ新宿に帰るのが日課になっている。
習性のように人は観察するが、すすんで人の流れを変えようとはしなかった。もちろん趣味であり、考えるだけでいくつもアイディアが浮かぶのだが、今は別のことに多く考えを裂かねばならない。
片手間に何かをする気分ではなかったし、かといって何かを忘れるために趣味に没頭できるほど問題に余裕は無かった。
顔を上げれば、そびえる駅袋駅の角が見えた。
もう少ししたら、町の彩りも淡いクリームと青いリボンに彩られる事になるのだろう。
臨也は眉根を寄せて、小さく笑った。

「ホワイトデー、ね」

先ほど田中トムと、あの男が話をしていた。拾い上げた小さな単語は、否が応でも二週間前の出来事を思い出させた。


バレンタインデー。


その日に臨也は、外国美女の後輩から小さな箱を手渡された静雄をみていた。
驚いたようにサングラスの中の瞳が瞬く。そこらへんのデパ地下でうっていそうな、薔薇色の箱に、静雄は目を細めて、笑った。
例えるなら、子供からプレゼントを貰った親のような、そんな顔だったとおもう。
臨也はデパートに駆け込んだ。
女の戦場と化した、バレンタインの特設会場。
そこから出てきた臨也は、袋を一つ提げていた。
チョコの箱は、枯れる寸前の薔薇のような赤い色をしていた。
不吉である。
池袋の路地裏だった。人通りも、車の通る道路も遠い。

「はい、あげる」

自販機を持ち上げた男に、臨也は両手でそれを差し出した。
ゴリラのような姿勢で固まった静雄は、暫くして自販機を地面に下ろした。暮れかけたすみれ色の空に、ズゥン…という低音が響いた。
我に返って他人の心配をしたわけではない。
もちろん怒りを解いたわけでもなかった。
こめかみと言わず、顔中に浮いた青筋がそれを証明していた。
「いざやくんよぉ…てめえ、それはアレか。箱ごと両手を粉砕してくれって、そういうことだよな?そうだよな?」
「そんなわけないじゃん、シズちゃん馬鹿なの?今日何の日か知らないの?」
「知ってるからいってんだろうが」
「ああ良かった。いくら縁遠いからっていって世間的な行事を都合よく頭の中で削除しちゃったのかと思ったよ」
静雄は静かに言った。よし、殺す。
うん、待てよ。臨也は真顔で言った。できるだけ、誠実そうに見えればいいと思ったに過ぎない。

「ねえ、シズちゃん、よく聞いて。俺ね、君のことがずっと好きだった。いや、これを好きと言うべきかよくわからないけど、ただ、これからの人生に君がいないという想像ができない」

普通に考えて、次に聞くのは静雄の顔面の青筋が全てブチぎれる音であるべきだった。
だがどうだろう。実際聞こえたのは、遠くを走るトラックのエンジン音だ。
静雄の顔は確かにこわばっていた。
だが、どうみても真っ赤だ。季節はずれの紅葉のように。
静雄はこわばらせた顔を、徐々に赤面させるという、よくわからない芸当をこなしてみせた。
臨也は、それを網膜に焼き付けるように、目を瞠って微動だにしなかった。
「……それ」
「え?」
静雄が指を差してるのが、チョコだと一瞬わからなかった。
「よこせ」
「は?」
「食ってやるっつってんだよ」
ここじゃ落ち着いて食えねぇ。
拗ねたように静雄がそういうので、場所をうつすことになった。2人は、気づいたら池袋のさびれたホテルにいた。
臨也は「初めてが安っぽいラブホとかさいてー」と女子高生のように文句をたれていた。青筋を立てた静雄が「なら帰れ」といい「冗談でしょ」と鼻で笑いかえした。
安っぽいホテルに相応しく、照明もベッドもピンク色で、天蓋までついていた。下品な色合いの壁紙に囲まれて、静雄は9つ納まったチョコを一つ一つ腹に収めた。
どんな神経をしてるんだろう。
お前が抱かれる側だと宣言されてもなお、静雄は顔色一つ変えなかった。

「いいぜ」

ぺろ、と溶けたチョコのついた親指を舐めた。
蝶ネクタイを自分から外してすら見せた。

「来いよ」

固い体を触れ合わせ、恥ずかしい事にも、歯軋りしそうな顔をして耐えていた。時折もれきこえる声以外、静雄が臨也に与えたものは、体の温度と硬さ、それから尻や腰骨、肩甲骨を擦る、手指やつま先の感触だけだった。
男臭い、ところどころ固くなった皮が臨也の皮膚をけずった。
呆れるほど、つまらない。
ただ、呼吸がしにくいほど熱気に満ちていた。空調こわれてんじゃないの、と何度思ったか知れない。
喘ぎ声や途切れる吐息に覚えが無いのは、多分、耳鳴りが酷かったためだろう。
心臓の音のように低い。それは途切れる事はなく、淡々とリズムを早めていった。
固い体を散々解して、なだめてすかしておしいって、それから臨也はようやく、――男の上で喉をそらして笑った。

「ばかじゃ、ないの!」
汗がいくつも、静雄の広い胸に落ちた。
「全部、嘘にきまってるだろっ!」
耳鳴りにまけないように声を張った。
「君なんて死ねばいい、死んで、二度と俺の前に現れるな!」

それなのに、先がかすれて聞き取りにくかった。
だからきっと、よく聞こえやしなかったのだ。
静雄は痛みで細めた目を、ゆっくりと瞬いた。彼は腕を伸ばそうとしたけれど、果たせずぐったりしていた。
やってる途中に暴れられて、首でも殴られたらホモの全裸死体の出来上がりだ。そんな危険も馬鹿もしたりしない。いうのはこのタイミングだって決めていた。
汗で張り付いた金色の髪が、けぶるように瞳にかかっていた。
薄い唇から、桃色の舌がのぞいた。

「いざ、や」

泣けよ、と臨也は思う。
願いが通じたように、静雄が笑った。
いつものように、ただ不敵に。

「ぐちゃぐちゃいってねぇで、さっさとやれ」

呼吸が止まったかと思った。
そこからは、ほんとにもう、耳鳴りが酷かった事しか覚えてない。


――ターン、スタッカート、トットトン!
裾の長いコートが翻る。すれ違う人が、廊下でひと回転する臨也をみて、目をそらした。うん、正解。でもつまらない。
臨也は俯きながらすれ違う2人組みの女性の顔を、横目でみてポケットから携帯を取り出した。
駅の改札に向かう途中、ホワイトデーフェアと銘打たれたプリンの露天を見つけた。
デパートのドアが開くたび、足元に冷気が流れ込んだ。
駅に直結する店内は、同じ方面に足早に向かう人が目立つ。寒さを避けるのが目的で、店内に一切興味がないんだ。
店員もそれをわかってるのか、一切声をかけてこない。
臨也は携帯に目を落とした。
ただ、頭の中ではまるで別のことを考えていたけれど。








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