「狡いのは本当に静雄なのかい?」

帰ろうとした臨也をよびとめ、新羅はそういった。
「あたりまえだろ」
臨也は平然と言う。呼び止められたリビングと廊下の境は、薄暗い廊下からふきこむ風で寒かった。新羅は「悪いけど、扉を閉めてくれるかな」といった。「温まった空気が逃げちゃう」なら、もっと早く話し始めろよと、臨也は思った。

「バレンタインの次の日、静雄がここにきたんだよ」

告白でも懺悔でもない。悪戯を告白できなかった子供に、語って聞かせるような静かな声だった。
「朝も早い時間帯で、その日偶々セルティは朝早くから仕事で出かけてたんだ。というか、僕とバレンタインを過ごすために仕事の時間を融通させてくれてたわけなんだけど」
静雄は、頭から血を流していたという。
どうしたのかときけば、電柱にぶつけたと答えたらしい。
「寝ぼけてたの?」
「いや、自分からぶつけた」
「……それ、無事だったの?電柱」
静雄はすこし考えるように視線をさ迷わせた。
覚えてないんだ。新羅はそう思って、それ以上突っ込むのをやめた。
「また、なんで電柱と石頭のくらべっこするかな。君が勝つのなんてわかってるのに」
「うるせぇ。ちゃんと怪我してんだろ」
「普通は怪我さえ出来ないんだよ」

朝は本当に早くて、始発が動いているのか定かではない時間帯だった。表を通る車も少ないのか、室内は怖いくらい静かだ。
静雄はその名前に相応しく、大人しく消毒され、大人しく割れた肉に包帯をされたという。

「なあ」

ふいにぽつりと静雄がいった。
包帯を半分ほど巻き終えたころあいだった。
新羅は、頭にネットを被せるかどうか考えていたらしい。無頓着な静雄の事だから、固定してしすぎるということがない。
だから、
「なに?」
「記憶ってさ、取り出しておいとけねーもんかな」
静雄がそういったとき、新羅はちょっと手を止めてわざわざ静雄の顔を覗き込んで首を傾げた。
「ごめん、もう一回。なんだって?」
「だから」
繰り返された言葉に、間違いが無い事を知った。
「記憶を取り出しておきたいって?つまり、どこかに閉まっておきたいってこと?」
「まあ…」
「へえ、そんなに大切なことがあったんだ」
おめでとう、と新羅は言った。
「おう」
ふ、と静雄の目元が和む。視線もくれられていない、微笑んだわけでもない。それなのに取り巻く空気が驚くほど柔らかだった。
(…驚天動地だねぇ、この2人に進展があるなんて)
実のところ、治療中に彼の耳後ろに薄い桃色の情痕があるのに気づいていた。
静雄の体にこれほどはっきりと残っているのだから、常人ならうっ血のしすぎで紫色になっているだろう。その時点で、相手には察しがついた。
「まあ、気持ちはよくわかるよ」
静雄は基本的に無口だ。語る口を持たない。
「俺もよく、セルティの可愛い仕草だとか表情だとか、どういう会話をしたのかとか、ひとつも忘れたくなくて、想い出を取り出しておいて置きたいと思うことがあるからね」
「セルティは顔ねぇだろ」
「表情というか、まあ雰囲気だよ。笑ってるとか、嬉しそうにしてるとかさ」
新羅は肩をすくめる。包帯を巻く手を再開し、やっぱりネットはいいかと考えた。
「そういうとき、どうするんだ?」
「んー、そうだな。想像をする」
「想像?」
「うん。忘れたくない想い出を、一つ一つ、箱にしまうんだ。綺麗に蓋をして、いつでも見られるようにしておきたいけど、でも誰にも上書きされないように奥のほうにしまっておく」
心の問題だ、と新羅は言う。
「想い出って言うのは、うまく隠しておかないとすぐに端から消えていっちゃうよね」
「そうなのか」
「そうだよ。忘れたくない事を、消していく一番の犯人は新しく入ってきた記憶たちだもの」
新羅は苦笑いした。
「セルティのことを忘れたくないのに、それを消していくのもセルティとの大事な思い出だったり、さりげない会話だったりするのさ」
静雄は治療中、ずっと俯けていた顔を上げた。新羅を見る目は驚くほど素直だ。
「じゃあ、記憶をのこしてーと思うなら、そいつの記憶を入れないようにするのが一番ってことか」
「まあ、そうなんだけど」
新羅は蕩けるような顔で笑った。
「でも、それじゃ新しい思い出は作れないよ。新しくて幸せな想い出で上書きをしていく。ただ、感情とセルティへの愛を積み重ねていく、それが一番幸せな形だと僕は思うけれどね」
幸福の形は、千差万別だ。
人、そして時間によっても変わってしまう。
まあつまり、がっつりとのろけたわけであるが。静雄は怒らなかった。
それどころか、口元に苦笑のようなものを浮かべたのだ。
治療が終わったと見るや、胸ポケットからタバコを取り出して一本銜える。
君、けが人だろう。自覚ある?
聞くだけ無駄だ。
静雄は目を細め、火をともして赤くなったタバコの先をみつめた。

「でもなあ。多分、もうあの壮絶なアホ面とか、必死こいた間抜け面とか、見れねーと思うんだよ」
「必死?」
「おー。あの面で、好きだの何だの」

思い出したのか、うっすらとほっぺたが赤い。
うわぁきもちわ…幸せそうで何よりだね!

「本気だってばれねーと思って好き勝手いいやがった。聞いてるこっちが恥ずかしくなる」
「それはそれは、なんかこう。色々たまってたんだろうね。あいつの片思い暦も長いもの」

新羅は同情するつもりでそういったのだけれど。「そんなもんお互い様だろうが」と鼻で笑われれば「え、なにこれノロケ?俺いま惚気られてる?」とフリーズせざるをえない。
「ムカつく面も、吐き気するようなクズい面も、多分これから腐るほど見ることになると思うんだけどよ」
「すごい言われ様なのにフォローする気がまるで起きないのは、臨也の人徳のなせる業だよね」
静雄は、ふーっと、天井に向かって煙を吐いた。携帯灰皿に灰を落とし、再びタバコを口に含む。
視線はあけて間もない窓の外にむいていた。
「おぼえといてやりてーんだ。他の誰も見たことねぇなら、なお更な」
消してしまいたくないのだと、そういう静雄の目の中には、タバコの火がちらついていた。



「僕もこれですこし、責任を感じてるんだ。あの時の何気ない話が静雄にこんなに影響を与えることになるとはね。僕も、静雄自身も全く思っていなかったんじゃないかな」

淡々と話を終えた新羅は、真っ直ぐ臨也を見た。
責任を感じるといった割りに、曇りの一つもない目だ。
「静雄は君と違って、悪意のないものには素直だ。僕の話をそのまま実行したんだろう。気休めだと思いながら。いや、むしろ気休めを望んでいたのかもしれないし、本気で願ったのかも知れない」
「……」
「静雄の特異な脳みそが、どういった構造で彼の願いをかなえたのか、それすら私には判らないけれど」
ねえ、臨也。
新羅は囁いた。
「君は君の告白を、踏みにじる事で思い自体をなかったことにしようとした。その君の存在を、静雄がなかったことにしたって狡いの何のと言えた義理なのかい」
新羅にしては珍しく、切り込むような口調だった。
臨也は微笑んだ。
「どうしたんだよ、運び屋以外に熱くなるなんてらしくないじゃないか」
「君が恋をなめてるからだよ」
セルティに、人生の半分以上の時間を使って「好きだ」と伝えた新羅である。彼の目から見て、今回の臨也の遣り方はあまりに稚拙だったし、恋を、馬鹿にしていた。
新羅のスリッパがフローリングを掠めた。小さな音がする。
「臨也。もう一度聞くよ」
ほんとうに、狡いのは静雄かい?



「あーぁ。あれだから恋に狂ってる奴は嫌なんだ」
すぐ背後で扉が閉まる。呟きはあっけなく開閉音にかき消された。
セキュリティもかねた重たい扉が足元のゴミを巻き上げる。
(あー…帰ってきた)
真っ暗な玄関の先に、リビングの明かりが灯っている。
もたれかかった扉は、コートごしなのに背中を冷やす。
どんだけ寒いんだよ。
萎えたように力がぬけて、ずるずると体育ずわりをする。ズボン一枚隔てたところに、氷のような床を感じた。
扉の隙間から冷気が忍び込んだ。二の腕や背筋を凍らせる。
――あの化け物が、俺の嘘に気づいてるなんて、しっていた。
臨也が「好きだ」と言ったとき、静雄は真っ赤になるより先に、顔をこわばらせた。
こわばった口元も目元も、臨也の言葉が嘘であることをしっていた。
同時に、真実であることも気がついていた。
臨也の言葉は嘘であり、同時にひとつの嘘もない。
不誠実な目的を盾にした、本心だった。
以前より、静雄は臨也の気持ちを知っていた。
静雄の気持ちを臨也が知っていることも知っていた。
その上で何も言わずに殺し合いをする、単純なくせにそんなところばかり意味が判らなかった。

――あの後輩が静雄にチョコレートを渡している場面をみて。思い知らされた気がした。

(それは、俺のものだなんて)

どの口が言えたことなのだ。
臨也はだから、思い知らせてやりたかった。
そんな気持ちなど、折原臨也の理性の前では塵にも芥にも等しいということを。
いつだって踏みにじる事ができるし、棄てる事もできる。
静雄に、――誰より自分に思い知らせてやりたかった。
静雄の目の前で、臨也の思いを屑になるまで踏みつけてやりたかった。
そうして、静雄の目が一層怒りと憎しみに染まって、臨也だけを真っ直ぐに見るようになればいい。
なぜ、静雄は臨也の嘘とも本当ともつかない言葉に乗ったのか?
簡単だ。
静雄があろうことか、折原臨也に恋をしていたから。
その一言に尽きた。
馬鹿な化け物。臨也は本気でそう思った。
そらされた首筋を思い出す。
伏せた目、顰められた眉根、低く押し殺した唸り声、固い肩の骨、柔らかい内ももの筋肉。
わかってるのか、と問いただしたかった。
お前がいま簡単に受け入れようとしてるのが、どんな人間なのか。
優しくしてやる術も、甘やかしてやるつもりもない。
自分のために、自分のためだけに静雄を手放したがり、手放せずにいる。
罵って、なかったことにしてやれば、さすがに怒り出すかと思ったのに。
静雄はたいそう男前に笑った。
アレは多分、それもふくめて受け入れてやるよ、という意味だったのだろう。
ゆっくりと息をつく。

「それがどうして、そんな方向に走っちゃうのかな…」

静雄の「うるせぇ、俺だって予想外なんだよ!」という怒鳴り声が聞こえた気がした。
大切にしすぎなんだよ。
臨也がやったものなんか、もっと雑に扱って、すりきれさせて忘れてしまえばいいのに。
大切に宝箱にしまって、くるんで抱えて、あげく自分で見ることが出来なくなってしまった。
本末転倒と言う言葉を、しっているだろうか。

「ほんと、馬鹿なんだからシズちゃんはさ…」
「臨也?」

部屋の奥から波江の呼ぶ声がした。
事務所はセキュリティのため、扉が開くと電子音がなる仕組みなっている。正統な手順を踏んで玄関がひらかれ、たしかに扉の音がしたのに、とうの主人が入ってこない。
彼女がのぞきに来るのも当然だった。

「波江さん」
「遅かったのね。どこをふらつこうが構わないけれど、半日も仕事を放り出すのはやめてちょうだい」
「悪かったね」

部屋の明かりとともに、足元に伸びた影が立ち止まった。
彼女のたっているところからは、暗がりで顔も判別できない。

「どうしたの。貴方に謝られると素直に気持ち悪いわ」
「素直つけるとこ間違ってない?」
臨也はひっそりと笑った。
「心配してくれるの」
「吐き気がするような勘違いはやめなさい」
「そう。悪いんだけど、波江さん。そのまま回れ右して部屋に戻って。暫く出てこないで」
「どうしてかしら」
「いまの俺を見られたくないから」
波江はちょっとだけ黙った。
「貴方がとんでもなく情けないなんて、今更だと思うけれど」
「…素敵で無敵な情報屋さんに向かって酷いな」
波江が呆れたようにため息をつく。

「浸りたいなら勝手になさい」

部屋の扉が閉ざされ、再び薄闇がたまる。
顔を上げる。
リビングの明かりが眩しくて目が痛んだ。
目を細める。

「…だめだ」

吐いた息が白い。
「むり、むりむりむーりー!寒い凍るって」
立ち上がり、臨也はリビングに向かった。

「波江さーん、ソファの上で考え事するから、珈琲いれたら帰って」
「凍り死になさい」

切り捨てた波江は、臨也の背中を見てため息をついた。
重症だ。
いつもの通りを装わないと気がすまないのかしら。慰めてやる気など枝毛の先ほどもないけれど、こんな時くらい何時もの倍情けなくても誰も気にすまい。それこそ、友人もいないのだから。

結局その日、波江は一度も雇い主の顔を見なかった。幸運な、ことに。









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