小さな箱だった。

枯れかけた薔薇のような、赤い箱。
留められていた黒い紐をそっと外した。赤い箱を下にずらせば、顔をのぞかせるのは一回り小さな黒い箱だ。
(…このまま、箱ばっか出てきて、チョコはありませんでした、とかいうんじゃねーだろうな)
黒い箱をあけると、その懸念は杞憂にかわった。
黒い箱の中には、計9粒のチョコが慎ましく並んでいた。
珈琲にも似た、濃いカカオの香りがする。
静雄の知っているチョコレートの香りとは随分ちがっていた。
ベッドの端に腰掛けながら、じっとそれを見下ろす。
下品なピンク色の明かりを浴びているのに、チョコたちは宝石のようだった。
一粒一粒が馬鹿みたいに高級そうなのは、辛うじて理解できる。
指を伸ばして、右下にあるカタツムリの形をしたそれをつまむ。
チョコの癖に細部まで彫りこまれ、断面さえなければ本物みたいだ。
カタツムリは、めちゃくちゃ旨かった。
かんだ瞬間、とろりと甘いキャラメルがあふれ出て、ナッツの香ばしい風味と滑らかなチョコが夢のように、……まあとりあえず旨い。
静雄は目を瞠って、もくもくとそれをかんだ。
飲み込むのがもったいない。
そんなチョコを食べたのは初めてだった。
二粒目は、左上の英語の書かれた四角いチョコだ。
みかんの皮の味がした。
でも旨い。
三粒目は、真中上の丸いの。真中下に同じ形状のものがあったが、色が薄い。
食うと、これまたナッツ系の濃厚な味がした。さっきのよりは苦味のある、けれどこれも旨かった。
四粒目は、右上にあった四角い形のもの。
ビスケットが中に入ってるのだろうと思えば、パイみたいにさくさくしたものがチョコでコーティングされていたらしい。
他のものより苦い。
でも、パイの甘みが噛むほどににじみ出て、悶絶するほど旨かった。
(すげー、色んな味があるんだな)
感嘆の思いで、残り五粒を見下ろす。
コレは多分、チョコはチョコでも、ちょっとちがうチョコだ。
甘いのに、苦い。
中身のナッツやパイの味がするのに、絶対にチョコレートが負けていないのだ。
「チョコすげぇ…」
静雄の目は、吸い寄せられるように真中の赤いハートのチョコに捧げられていた。
赤いし、ど真ん中。

こいつがきっとリーダーだ。

リーダーということは、きっと一番、特別旨いに違いなかった。
生唾が喉を滑り落ちる。
「何、チョコに欲情してんの?」
呆れた声が背中にぶつかる。
臨也が頭を拭きながら歩いてきたところだった。
バスローブ、なんて着てる奴初めて見たぞ。
っていうかこういうところにもあんだな、そーゆーの。
「だせぇ」
「…おい」
臨也のほっぺたがひく、と引きつった。
「君もとっとと入ってきなよ」
「あー、後でいい」
「…あのさ、シズちゃん今日一日仕事したあとじゃないの」
「おう」
「エチケットだろうが」
「知るかんなもん」
臨也はこれ見よがしにため息をつきやがった。うぜぇ死ね。
「どっちかっていうと、君のために言ってあげてるんだけど」
「あ?」
「いいよもう。君ってそういう奴だった。後で死ぬほど恥ずかしい思いすればいいさ」
鼻で笑う。
恥ずかしいもクソも、十代の女の子じゃないのだ。恥じらいを求めるなら他所にいけ。
正確にそれを読み取ったのだろう。臨也のこめかみが引きつった。
「この…」
臨也がベッドに乗り上げる。
「今から散々虐げられんだから、初めくらい優しくしてやろうと思ったのに」
肩を押されて倒れ込んだ。
その瞬間、跳ね起きる。
視界の隅で、チョコの箱が小さく跳ねたのを見たからだ。
「ばっ…てめぇ、こら!チョコがおちんだろ!」
「はぁ?ちょ、この状況でチョコレート優先とかどういうことさっ」
臨也を押しのけて、チョコレートの箱を救い上げる。
やっぱり二粒、布団に転がり落ちていた。
臨也を膝に乗っけたまま、静雄はそれらを救い出す。
「…おい、ちょっと」
「黙れ」
いって、一粒チョコを放り込む。濃い色をした丸いチョコレート。思ったとおり、さっき食べた同じ形のより、苦い。
もう一粒は、ペンギンだかコウノトリだか、よくわからない鳥の形をしていた。
甘く、わずかに塩気がある。キャラメルの香ばしい香りが鼻を通った。
「…あのさ、味わいすぎじゃない?この状況で」
「うまいもんに敬意はらって何が悪い」
次もまた、英語の書かれた四角いチョコ。
つん、と鼻を通るような華やかな香り。
「敬意払ってる場合かってきいてんの」
もう一個、丸っこいの。
「んっ…」
臨也があろうことかキスを仕掛けてくる。
てめ、チョコが、口ん中にのこってんだろーが…!
抗議も言葉にならないくらい口内を嘗め回されて、チョコの固まりと一緒に唾液を飲み干した。
「…いまの、アーモンドか?」
「ジャンドゥーヤでしょ。シズちゃん舌大丈夫?」
互いに息を乱していた。
臨也はほっぺたを赤くしていた。照れてるのではないのだと気づいて、喉で笑う。
「盛りついた犬みてーだな」
「…悪くないね」
臨也は鼻先を近づけた。
「その犬に、今からヤラレちゃうんだよ。シズちゃんはさ」
欲に染まった目でみつめられて、ゾッとした。
背筋が、震え上がる。体の奥に、痺れのようなものが走り、火がつく。
「悪くねぇな」
静雄はふと気づいて、最後の一粒残ったチョコの箱をしめた。
「ちょっと…」
臨也が不満気な顔をする。
「後でたべんだよ」
臨也は静雄が閉めた箱を、そのまま手を伸ばして、床においた。
落とした、に近い。
「これでいいでしょ。いい加減、こっちに集中しろよ」
「おまえなぁ…」
拗ねてやがる。
愉快な気分になって、目を細めた。溶けたチョコが手についていて、これ見よがしにそれをなめとる。臨也が目を眇めた。

「いいぜ」
リボンタイをはいで、チョコの箱があるほうに放り投げた。
「来いよ」

唯一の懸念は常温で、あの赤いハートのチョコが溶けないかと言う事だった。
まあ、大丈夫だろ、と静雄は思った。
空調が壊れているのか。
この部屋は、肌寒い。
誰かと触れ合っていなければ耐えられない程度に。
二度目のキスは、8粒のどのチョコレートよりも、ただただ甘かった。



***



目覚めると、目の前に男がいた。
柔らかい呼吸音。
眠っているようだ。それはそうだろう。今は朝だ。多分、六時くらい。
問題は、

「なっ……!?」
(誰だこいつ…!!)

何でこの見知らぬ男は、静雄の部屋の、静雄のベッドの、静雄の隣に眠っているのか。
それが問題だった。
男は、寝癖ひとつない綺麗な黒髪をシーツに零し、すやすや寝息を立てていた。
薄い唇から、穏やかな寝息が聞こえる。
(睫なげー……)
…いや、そうではなく。
どう反応したらいいのか、静雄が固まっていると、ふいにその触覚みたいな睫が震えた。そうっと、瞳が開く。
静雄は飛び起きると、ベッドの上で壁に背中を貼り付けた。

「だっ、だ……!」
「あれ?もうおきてたの、シズちゃん。まだ早くない?」

――シズちゃん?

男は眠たげに目を擦って、側にあった携帯を引き寄せて液晶を確かめている。
…側にあった?
男は携帯を充電しているようだった。
充電しているという事は、つまり充電器があるということで、つまり静雄の部屋にそれはあるはずだ。
よく見ればそれは自分が使っているのとは別の会社の機種である。
わざわざ、持ち込んだのだろうか?
男は「やっぱりー」と不満気に顔を顰めた。
「はやいよ。まだ六時じゃん。七時で大丈夫でしょ」
「いや、あの…!」
「何、もう目、冴えちゃった?」
男は、ベッドのすみで怯えて張り付いたままの静雄をみて、体を起こした。
さむ、と体を震わせると、掛け布団を自分に引き寄せてくるまる。
手が伸びてきて、頬を撫でられた。
頬を撫でた手が、親指でそっと静雄の下瞼をなでる。
「今日は腫れてないね」
「…っ」
男の指が、睫の一本一本を確かめるように撫でる。
「どんな夢、みてたの」
「ゆめ?」
「そうそう。昨日の夜みたら、すっごいにやけてたから。どんなやらしい夢みたのかなーって」
「にやけ…」
静雄の瞼の裏に、断片的な場面が浮かんだ。
細部まで思い出せる…否、細部しか思い出すことの出来ない夢の欠片。肌を刺すような外気の冷たさ。天蓋のついたベッド。備え付けの風呂の黴。首筋をなぞる指の感触。
思い浮かぶ細部は、質感や味まで思い出せるほど細やかなのに、どうしてもそれ自体が何だったのか、わからない。
ちかちかと、脳裏で閃光が瞬く。
「あー…っと、どんな夢、だっけか…よく覚えてねぇ」
自分の頬から血の気がひいたのを、男の指の温かさで知る。
男はじっとこちらを見てたけれど、ふいに表情を柔らかくすると笑った。
「そ。ま、いーや。ほらほら。目ぇ冷めたんなら、顔洗ってきなよ」
静雄は促されるまま立ち上がり、洗面所に追いやられる。

(―――いやいやいや、ちょっと、待て。ちょっと待て!)

洗面台に手を突いて、静雄は頭の上にうかびまくる疑問符を全部ひっ捕まえた。
(アイツ誰だ?)
そう、それである。
なんだか、ものすごく『いるのが当然』みたいな雰囲気をかもし出されたが、自分はあんな男なんて知らない。
ましてや一緒に眠る仲の男など存在するはずもなかった。女ですらいないのに。
「…ってことは、変態だな」
自分の家に勝手に入り込んだ変態。
静雄の中でそう結論が打ち出された。
静雄は両手で頬をぱんっと張ると、勢いよく水を流して顔を洗った。顔の青さがいつの間にか消えていたのには気づかなかった。
タオルで水分をふき取る。さっぱりして、「よし、殺す」と静雄が決意を込めて居間と洗面所の境の扉を開いたときだ。
「てめぇぇ、この……!!」
「あ、もうすぐフレンチトースト焼きあがるから」
男は静雄の姿を認めると、にっこりと笑った。黒いエプロンをして、台所にたっている。
「座ってるか着替えるかして待ってなよ」
「そうじゃ、」
「カッター、アイロンしてそこかけてあるから」
「なくて…!」
「え、何?ココアも飲む?」
「ひ、との話をきけぇぇぇぇぇッ」
最大音量をもってして凄んだのに、とうの男はきょとんとしている。

こいつ、俺が怖くないのか。

静雄はとまどった。
なんだかこの台詞、自分で言うのもすごーく間抜けな気がするが、普通はこれだけで怯えてちびる。
だのに男は、あの触覚みたいな睫をばしばし瞬く以外微動だにしない。
と思いきや、ふ、と唇が横に引く。
「冗談だよ。俺のこと誰だかわからないんだろ?」
「冗談ですむと思ってんのかてめぇ…人んち入り込みやがって。変態か」
「俺を変態だというなら、まあ君もそうさ」
そいつは、肩をすくめた。やけに芝居がかっている。自分のこめかみが、ひきつるのがわかった。
「なんで俺が、てめぇと同等の扱いをうけなきゃならねぇんだ?ああ?」
「だって俺、君のワイフだから」
呼吸が止まった。
「わ…?」
「ワイフ、奥さん、連れ合い。まあ、朝昼仕様はと考えてくれて構わないよ」
「いや、よく意味が」
「うーん、最後まで言わせちゃうのか。うん。つまり夜はシズちゃんが奥さ…」
「そんなこときいてんじゃねぇっ」
なんか、ものすごく恐ろしい事を言いそうになってなかったか?
静雄は二の腕に鳥肌が立つのを感じた。
男は、「あ、こげちゃう」とのん気に呟いて、フライパンでやいているフレンチトーストを裏返した。
「嘘だと思うならさ、そこの戸棚の上みてみなよ」
「?」
視線もくれず、箸で示された先は、卓袱台の隣にあるチェストだ。
そこには家族の写真が2枚、写真たてに飾られているはずだ。が、静雄は首を傾げた。
…一枚多い?
近づいてみてみると、学生の頃の写真だった。
新羅と門田、静雄、そして「ね、嘘じゃないでしょ?」と後ろで笑う男が、写っている。
学ランはしっくり似合っていて、静雄とはそっぽを向いて写っていた。
「それ、サイモンに仲直りの印ね、とか言われて無理やり写されたやつ。2人とも肉体派な喧嘩のあとだからボロボロだろ?」
「う、そだろ…」
「うそなもんか。ちなみに合成かどうか、見極める機関にもっていってもいいよ。本物だから」
振り返れば、男はフレンチトーストを皿に移していたところだった。
「シズちゃん、君さ、病気なんだよ。俺だけ忘れちゃう、アルツハイマーの変種形みたいなの」
静雄はゆっくりと目を瞬いた。
「とりあえず納得してくれたら、朝ごはんたべようよ。あ、悪いんだけどそこからフォークだして」

言われるまま開けた食器棚には、色違いのマグカップと、これまた色違いの箸が二組並んでいた。









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