「トムさん…オレ、知らない間に嫁さん貰ってたらしいんですよ」

トムさんは、お昼の珈琲を盛大にふいた。
見事な噴水に、隣の席の女子高生が悲鳴をあげる。
どうやらワンセグでテレビを見ているらしく、人の笑い声をはっする携帯を慌てて机の奥に移していた。
お客様!?と飛んできたファーストフード店の店員が、モップがけをする。
トムさんは方々に平謝りした挙句、ようやく俺のほうを見た。
「嫁…?」
「はぁ、まあ男なんで嫁と言えるかどうか」
静雄の言葉に、まだこちらを伺っていた女子高生がぎょっとした。「ホモだ」「ホモだって」と囁き声が聞こえる。
トムさんは静雄と女子高生をみくらべてひやひやていたが、静雄は別のことに気をとられて、気付く余裕もなかった。
「朝、目ぇ覚めたら全然しらねーやつが横に寝てて」
「そりゃーびっくりするなぁ」
「部屋に写真とかあるし。みたことねー食器とか、服とか増えてるし」
「普通に怖いな!」
「あと、俺よりアイロンとか、フライパンの位置くわしいし。それに…下着が…」
「…静雄、トムさんもうそれ以上怖くて聞きたくない」
勿論静雄には聞こえていなかった。
「柄パンの畳みかたが、みたことねー形になってたんですよ」
「がらぱん…」
「あんなもん、四つにたたんだら終いじゃないんですか。半分に折ったあとに、綺麗に三角にたたんであって。びっくりするくらい収納スペースがあくんですよ」
「……意外なキャラを見たなぁ」
トムさんはとても感慨深そうにつぶやいて、そっと窓の外に目をやった。
となりはすぐ窓になっていて、二階席から外の人たちが見えた。
「そうかぁ…自分で洗濯とかできちゃうんだなぁ。イメージなかったわ」
「はあ。イメージ、っすか」
「しかももしかしたら柔軟剤とかつかってるんじゃね?そのイイにおい、柔軟剤だろ」
「じゅうなんざい…」
静雄はカッターの袖に鼻を近づけてふんふん臭いをかいだ。
甘い、花のような果実のような香りがする。
「…くせぇ…」
今日帰ったら確かめようと心に決める。
顔を顰める静雄をみて、トムさんは頬杖をついて「あーあ」とわらった。
「とうとうお前にもいい人ができたかー」
「いい人…ですか」
「炊事洗濯こなして、くれんならそうじゃね?」
「正直、すげーおちつかないんすけど。俺も、多分あっちもなんかそんな感じで」
初めも遠慮くらいすらぁな、といって、それから「そういうキャラか…?」と自分で悩み始めたとトムに、静雄は眉根を顰めた。
「ちょっとまってください。もしかして、トムさん俺の同居人のこと、しってんですか」
「あー、まあな」
トムはもったいぶりもせず、大して悩みもせず頷いた。
静雄との付き合い方で、彼を苛々させるほど待たせないことを学んでいた。
「や、同居自体はじめて聞いたけどよ。まあ…多分そう何だろーなーっていうやつはいる」
「マジっすか」
静雄は真剣に眉間に皺を寄せた。
すべてあの男の妄言ならいいとおもっていたのに。
トムにまで肯定されてしまったら、
「おれ、ほんとにアイツの事忘れてるだけなんですね」
「まー、なんつうか」
そのほうが、いいような気がするけど。
真剣に悩んでいる静雄にそんなことを不用意にいって、きれられても困る。恋人だとか、そういうのを妙に硬く考える男だ。
君子危うきに近寄らず。
トムはだから、静雄の先輩としてやっていられる。
それに、あの黒いのも炊事に洗濯なんて。
頬杖をついて、ウンウン唸る静雄をみて、トムは笑った。
「まあ、そーだな。詳しくしらんからなんともいえんが」
静雄が顔を上げた。
「とりあえずだなぁ、静雄」
「はい」
「ヴァローナに渡す、ホワイトデーは奮発してやれ」
「?」
恋バナをする男2人にドン引きしている女子高生が、ワンセグの音量をあげた。「ヴァローナって誰」「外人?アニメ?」「マジで?ホモのオタク」「ホモのオタク?マジで?顔いいのに」
携帯の中では、ちょうどお昼の番組が火曜日のコーナー、グラデーション調にそっくりさんを出していくゲームを始めていた。



***



池袋には、謎の一角がある。
夕方、学生が町に放たれてから一気に騒がしくなったサンシャインの前を通り過ぎ、静雄はそこにいた。
見上げれば茜空を背景に、裸の男が2人絡み合った漫画の広告が、曲がり角を占拠している。
おい、あれは未成年にみせてもいいものなのか。
静雄は見るたび、そう思う。
やけに潤んだ金髪と黒髪の男2人の流し目から、目をそらした。
「あ、シズシズだー!」
「んあ…?」
と、顔を上げると、道路の一角に止められたワゴン車の窓から、真っ黒な女がこちらを指差していた。
おいこら、人を指差しちゃいけませんって、先生に…。
「静雄じゃないか」
「門田」
ワゴン車の助手席から、見知った顔がのぞく。
目深に帽子をかぶった男は、口の端で笑った。
嫌味な感じがしない、親しさがある。
最近調子はどうだ、とか、まー良くはねぇわな、という会話を枕詞にし始めたら、なんだかもうオジサンが近い気がする。
静雄はふと、タバコを口に挟みながら、気にかかってることを相談できるチャンスである事に気がついた。
「…あの、よー門田」
「どうした?」
「相談って程のこともねーんだが」
珍しく歯切れの悪い静雄に、門田が目を瞬く。
静雄はワゴンに背をあずけながら、タバコの煙を吐いた。
ワゴンの後部車両で、狩沢と遊馬崎がきゃいきゃいと何かを論じ合っている。「だからー…ロックシューター…!」「精神の狭間とですね…!」「……精神的どSが…!」「…といえば!」
『メニアーック!』
ユニゾンである。
「おい、大丈夫なのかアレ」
「…気にしないでくれ。いつものことだ」
ならいいけどよ、と静雄はすこし納得していない顔でいう。
門田は、話題を変える意味でも
「それで?」
声をかける。
「どうしたんだ。お前が言いよどむなんて珍しい」
「あー、まあ、そのなんだ」
静雄はうろうろと視線を泳がせて、それから似合わない小さな声で言う。
「トムさんには、怖くてまだ聞けてねーンだけどよ。…俺、知らない間に…同棲してたらしい」
ぴくん、と門田の眉が上がる。
「お前、そんな相手がいたのか」
「同棲までする相手に『らしい』ってなんだと、自分でも思うんだけどよ。どうも俺、脳の病気でそいつのことだけ覚えてられないらしい。」
「…それで?」
門田は聞いた。
「部屋に俺とそいつが写ってる写真が飾ってあるんだけどな、それにお前も写ってんだ。もしかしたら、お前の親しいやつか何かかと思って…」
「写真って、どんなだ」
「高校の時の、…喧嘩したあとに仲直りの印に取った奴っていってたな」
「………喧嘩?お前が女と」
「女じゃねぇよ。男だ。折原臨也って言う…」
門田は怒涛のごとく沈黙した。
引かれたか、と静雄はきまずそうに頭をかいた。
「あー、とだな、」
「シズシズほんとに!ほんとにイザイザと同棲してるの!えええリアルびーえる!」
「うおっ」
急に後部座席から顔をのぞかせた女、狩沢が突進せんばかりの勢いでいう。
心なしか、目から光線が出ているみたいだ。
「い、いざい…なんだそりゃぁ」
「イザイザはイザイザだよ!そっかぁー!やっぱりボーイズでラブってたんだぁ!」
「おい、イザイザってなんだって…」
「っていうかいまさら何もないデスっていわれてもね!だってこの前、駅前でキスしてたじゃん」
べきぃっ。
運転席で渡草が悲鳴をあげる。
静雄が、掴んでいたミラーを握りつぶしたのだ。
「き…」
「そうそう。覚えてないんだっけ?すごかったよー。イザイザがね、ドタチンと話してるシズシズんとこに、ツカツカーってあるいてきて。襟首ひっつかんで、こーぶちゅーって」
「ぶ、ちゅ…」
「『色々諦めたから、まずは外堀から埋めようと思って』とかいってたよ。何のことかよくわかんないけど…まあわかんなくていいかなって!ご馳走様ですってそれだけ解ればもうおなか一杯!なのに記憶喪失までくっついてくるとか、もうネタ的にはお腹はちきれそうだよ!」

ぐっジョブ!

指を突き出されても、さっぱりわからない。
静雄の手の中で、めきめきと音を立ててミラーが缶珈琲くらいの大きさになった。
「し、静雄…?」
「……かどた…」
「お、おちつけ。落ち着いてくれ。コイツは悪い奴じゃあないんだが、ちょっと過剰な妄想癖があって…」
「えー。でもチューしてたのは事実じゃん?」
「お前ちょっと黙ってろ!」
「そうっすよ狩沢さんっ、BLと命とどっちが大事なんっすか!」
「BL。っていうか萌え」
「男前―ッ!でもどっかでその答えを聞きたかった俺がいる!」
「お前らいっぺん沈めないと静かにならねぇのか!」
賑やかな声が耳を素通りしていくのがわかった。
キス。覚えてないのに、男とキス。それも、大勢の前で。
きゅう。
可愛らしい音をたてて、静雄の手が拳を作る。
ミラーをもっていた手だ。
ミラーは落ちたのでもなんでもなく、静雄の手の中で飴玉ほどの大きさになっていた。
「しず…」
「門田…」
静雄は呟いた。
俯いているためにその表情は余人からは伺えない。
「…なんだろうな。この、体の奥からざわざわと湧き上がってくる…」
「おい、大丈夫か、手ぇ震えてるぞ…?」
「大丈夫…大丈夫だ…ただ、ちょっと」
これ以上圧縮しようもない金属の固まりが、鈍い音を立てて石の大きさに割れ、手の中でさらに小さく割れていく。
「覚えてないとはいえ、恋人だ。だがな…恋人とはいえ守らなきゃならねぇ節度ってもんがあるよな?」
「え、あ、ああ」
「捻る…」
ゆらりと、静雄の背後に陽炎がたちのぼる。
オーラだ…、オーラが見える、と遊馬崎が慄いた。
「門田」
静雄がサングラスの下から、門田を見上げた。
悪い事をしていないのに、なぜか肩を跳ね上げてしまう。
「時間とらせて悪かったな…」
「いや、大丈夫か?」
「あ?ああ…まあな。大丈夫だ。仮にもやりすぎたとはいえ恋人だ。殺しはしねぇよ…。多分な」
たぶん…。
遊馬崎がつぶやいた。
この世にこれほど儚い多分があるだろうか。
口では大変殊勝な台詞をはいているのに、門田の目の前では今にもはちきれそうな青筋が、静雄の滑らかな肌の下に何本も浮かび上がっているのだ。現在進行形で。

「邪魔したな…」

くるりと背中を剥け、縦に長いバーテンダーの後姿が遠ざかっていく。
あの尺の長さで大またに歩くものだから、その背はぐんぐん遠ざかる。門田は、はっとして声をかけた。

「静雄!程ほどにな」

ひらひらと振られた手は、綺麗に糊のきいたカッターシャツに包まれている。
が…暫くいったころだろうか。
ふいに静雄が、天を仰いだ。鼻がうごめく。髪がざわりと、逆立った気がした。
目を剥き、歯を剥いた。
天に向かって吠える。
「いいいざぁぁやぁぁぁぁぁ―――ッ!」
その背中は、以前見ていたものとなんら変わりない。
後部の窓から顔を出していた狩沢が「あら、おひさしぶりー」と軽く呟いた。
「なんかさー、やっぱり恋人とかいわれるより、ああいうの見てたほうが、滾るよね!」
門田は、絶対同意したくないのに、何かがわかる気がして思わず腕を組んで俯いた。
滾りはしないが、しっくりはくるな。
呟いた声はとくに誰かに拾われるではなく消えた。
「あーあ。あんなの見せられたら男子高校生の日常みたくなっちゃったなー」
「因果関係が皆無ッすよ狩沢さん」
「私の中ではつながってるからいーの」
本日は木曜日。放送日までにはまだ時間がある。
「うーん、でもまあ甘いのも美味しいよね。女子だし。私はセカコイも楽しめる人だし」
狩沢が、茜色の空に手をあわせた。
「ゴチでした!」








top/