「おう、兄ちゃん、いま肩にぶつかったのはお前さんかい」
「あぁ…?」
この時点で、「あ、やばいかも」って思ったわけで。
肩を押さえながら凄んできたおじさんは、ちょっと酒臭かった。そんでもって、その後ろから同じようなおじさんがぞろぞろ出てくる。
その時点で「これもうだめだ」って俺は諦めた。
(あのお茶屋、昼すぎるとすごい人ならぶんだけどなぁ)
空を仰ぐ。太陽は空のてっぺんにのぼって、ぴかぴかに輝いてる。
昼前の町はどこも日に照らされていて明るい。ってことは、このおじさんたち朝からお酒飲んでたってことだ。たいはい、って言葉を知ってるかな。
おじさんたちはにやにや笑ってる。細い彼と、子供の俺じゃあ玩具で遊ぶのと一緒だと思ってるんだ。
「骨おれてたらどうしてくれんだぁ?」
「慰謝料に身ぐるみ全部置いてってもらおうか」
いまどきドラマでも言わないよ、そんなセリフ。なのに彼にはきっちりと響いたらしい。目の前の背中がゆっくりと膨れ上がっていく。…あーあー。

「…上等だ」

この時点で、俺には彼の背中しか見えてない。でもわかっちゃうわけです。青と白の波しぶき。彼が足を踏み出すと、ぱっとしぶいたみたいに風に揺れる。

「手前ら全員、医者の診甲斐があるようにしてやろうじゃねぇか!」

ねえ、津軽。

(多分『いしゃりょう』の『いしゃ』は、お医者さんじゃないよ)

青と白の羽織が目の前に広がって、青空を隠してしまう。精一杯手を伸ばして、受け止めた。
「サイケ!」
声が弾み、いきいきと彼は言った。金色の髪が太陽に映えた。海と同じ色の目が、空を映してひかりかがやく。
肩越しに見えた津軽の口元は、笑っていた。
「それもっておとなしく下がってろ」
「はーい」
それが最後。津軽の世界から、俺の存在は消えてちゃう。

羽織を一生懸命回収していたら、向こうから「ぐはぁっ!」といううめき声と、何か重たいものをぶつ音が聞こえた。
羽織を抱えて、顔をあげた時には、もう津軽はおじさんたちと遊んでた。
おじさんの太い腕が、わーって津軽に向かって伸びていく。逃げ場なんてないように見えるのに、津軽は姿勢を低くしてそれをかわした。長い脚で一人目の顎を蹴り上げる。
すらりとした脚が、日差しをぱっと白くはじいた。
太ももまでむき出しにしたまま、津軽は飛ぶように駆けておじさんたちを二人、三人、と伸していく。
暴れやすいように着物の裾をまくってるんだ。
喧嘩をしているときの津軽は、本当に楽しそうだ。
多分、スポーツと何かと勘違いしてるんだろうなって思う。
もとになった平和島静雄よりも、津軽は少しだけ力が抑えられている。なぜって平和島静雄の暴力をめきめき強くした臨也君が、津軽にはいないからだ。俺が、臨也君みたいに津軽のことを苛めてたらまた話は別だったと思うけど。もちろん俺はそんなことしない。

(だって津軽はきれいだもの)

あ、津軽の膝がおじさんのみぞおちに入った。白くてまあるい膝小僧が、こんな時は凶器だ。かわいそうに。脳震盪でも起こしたみたいに、おじさんは地面に倒れた。

(でも津軽が本気でやったら、顔の骨砕けてるからね。おじさん、運がいいんだよ)

津軽は力が小さい分、平和島静雄より早く力を自分のものにした。手加減しようと思えばできるし、我慢しようと思えばできる。その分ぐだぐだ思い悩んだりしない。明るく力をふるうし、そうでないときはすっごくやさしい。
こっちをみて「どうした」って、ちょっと目を細めて笑う顔が、俺は一番好きだ。
俺は折原臨也の「正直」な部分でできてるらしい。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。見栄も嫉妬も意地もない。人の悪意を見るのも大好きだし、人をおちょくるのもだーいすき!
生き生きしている津軽は、大好き。

(でも、喧嘩している津軽は嫌い)

津軽が、ひとりを回し蹴りでしとめる。凶悪な笑顔を張り付けたまま(俺はこの顔も結構好きだよ。肉食獣っぽくて)しとめたおじさんの肩に駆け上って、唖然としてる最後の一人にとび蹴りを食らわせたのだ。
「なむあみだぶつ…成仏してね、おじさん」
ちょっとだけ可哀そうに思ったので、手を合わせてあげる。
津軽が、しかばね(死んでないけど)の中で、つかってもない腕をぐるんぐるん回して、満足げに息をついた。普段は煙管をもってるから手をつかわない喧嘩が身に沁みついてるんだ。
津軽の青い目は伏せられている。頬にまつ毛の影ができてる。軽い運動をしたせいか、ほっぺたは少しだけ色づいていた。

(きれい)
俺は思う。
(きれいだ。すごく、きれい)

誰も触っちゃいけないみたい。

暴れているときの津軽は、それしか考えてないけだものだ。自分の力を、少しずつでも出せるのが嬉しいんだ。きっとほんとはもっとのびのび暴れたいんだろうけど、相手のことを思って、ちょっと我慢してあげる。
そんなとき、俺は猛烈な欲求に襲われる。

(なら、ねぇ津軽。俺が相手になってあげようか)

ナイフを出して、津軽の体に切り付けてあげたい。
そうしたら津軽は、驚いて、悲しんで、それでも生存本能にしたがって、俺を潰しにかかる。俺は津軽より強いから(津軽は知らないけど)きっと津軽はなんの我慢もしなくていいね。
津軽は俺のことだけ見て、全身全霊をかけて俺に対峙して、全力を出して、――それから。

(津軽)

足を、踏み出す。

――けれどいつも、その欲求は根こそぎ踏みつぶされる。

津軽が伏せていた眼をあげて、何かを探すようにあたりを見渡す。
その目が、俺を見つける。目が、じんわりと細められた。
(いわないで)
いつもほんの少しだけそう思う。けれど体は期待に震えた。
津軽の唇が震えた。

「――サイケ」

じわりとしみいるような、彼の声。
いたわるように手を伸ばしてくる。大きな手が頭を撫でた。
「羽織、ありがとうな」
「うん」
「あと、悪い」
素直に頷いた。
「津軽、煙管も一緒になげてたよ」
津軽は「またやっちまった」と苦い顔をする。
羽織を渡してあげる。それから羽織の袖に入っていた煙管を、大きな手にのっけた。
左手に羽織、右手に煙管をもった津軽に、思い切り抱きついた。
臨也君の16歳ごろの情報をもとにしている俺は、津軽の鎖骨までしか身長がない。
ぐりぐりと甘えるように頭を押し付けた。
「サイケ?」
「津軽ぅ」
「どうした」
羽織を持っている方の手が、俺の頭を撫でる。
「大好き」
「…そうか」
「でも喧嘩してる津軽は俺のこと見てくれないから嫌い」
津軽が苦笑した。ふ、と息が耳元に降ってくる。
「放ったらかしにして悪かったな」
津軽は素直な子が好きだ。
だから俺は素直にいう。ただ、津軽に言わないことがあるだけで。別に隠しているわけじゃない。ただ津軽はそれに気が付かない。
もしかして、と時々思う。

(臨也君は、あの欲求に従ったのかな。平和島静雄は、臨也君を止めてあげることができなかったのかな)

津軽よりも強くて、荒々しい平和島静雄。
俺よりも捻くれて、膨大な意地とプライドを積み上げた臨也君。
(平和島静雄は、臨也君よりもきっと、強いんだろうな。それなら、臨也君相手に手加減をしてあげるんだろうか)
俺ならそんなのは絶対ごめんだけど。俺の元だというなら、臨也君だってきっと同じはずだ。
いろんなことを考えていたら、ふと大きな手が、ぽんぽんと頭を二度たたいた。
顔を上げると、逆光のなか津軽の顔が見えた。海色の目が優しくたわみ、口の端をちょっとだけ上げて笑っていた。

「よし」
津軽はいった。
「団子食いに行くか」
すべてがどうでもよくなって、俺は素直に頷いた。











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