「おい、なんだこれ」
「何って、足枷だけど」
「………」

改めて見渡すと、広い部屋だった。清潔な白い壁に、光を取り込む窓、大きなベッドには黒いシーツがかけられている。電気スタンドの横には携帯の充電器が置かれていた。
つまり、臨也の部屋だ。
ただ、ベランダに続く大きな窓は雨戸が締め切られ、カーテンが引かれていて光は一筋さえ入ってこない。
そこで俺は、なぜか銀色のきらきら輝く鉄の輪っかを渡された。それには指先でつまむだけで粉にできそうな、細い銀色の鎖がついている。銀の鎖は長く、臨也の手の中に伸びていた。
「昨日約束したよね」
臨也は俺と目が合うと、にっこりとわらった。
「勝った方のいうこと、何でも聞くって」
「………」

―――昨日のことだ。
春になると馬鹿が増え、夏に超過料金の取り立てが回ってくる。おまけに暑さで頭が茹ったのか、集金した金目当てに強盗を仕掛けてくるやつまで出た。つまりここ数週間、俺は死ぬほど忙しかった。
夕食を一緒にしよう、と電話がかかってきたのは昨日の朝のことだ。「いいぜ」俺は答えた。ちょうどその日の仕事が6時に終わる予定だったからだ。
お互い街中の喧嘩を抜きにしたら、ゆっくり会うのは久しぶりで、食は進み、いい感じに酒が回っていた。
「お前、酒に酔うとすぐ赤くなるよな。女みてぇ」
からかうと、臨也は顔を上げて目だけ鋭くする。
「聞き捨てならないね。確かに赤くなるけど酔いやすいのは君の方だろ」
「ああ? 酔ってねえよ」
「嘘つけ酔っ払い」
そんな押し問答になった。
そしたら臨也がこんなことを言い出しやがったわけだ。
「このさいどっちが弱いか決着をつけようじゃない」
そういっておでましになったのが、一升瓶。泡盛だ。
「飲み比べでどう」
「望むところだ」
「負けたら勝った方のいうことをなんでも一個聞くこと」
「おう」
「ほえ面かかせてやるよ」
「手前がな」
にやあ、とお互い相当な悪人面を突き合わせた覚えが、確かにある。
舌から喉を焼くようなキツイ杯を何度か重ねた。そのたびに「シズちゃん、いい加減ギブアップしたら?」と揶揄って来るのがうっとうしくて、余計むきになった。

で、だ。
その結果、今にも高笑いしそうな、こいつの顔が前にあるわけだ。
「7杯目。君がつぶれた杯数だ」
「………」
「スイッチが切れたみたいに、ごんっ! って机に突っ伏すから吃驚したよ」
「……あたまいてえ」
「二日酔いだね」
臨也は鼻で笑いやがった。
「ちなみに俺はすでにキャベジンのお世話になってる。君が欲しいなら進呈してあげなくもないけど」
「はいちおーるしー」
「は?」
「二日酔いにはハイチオールCが一番いいってトムさんが言ってた」
「下り坂さしかかったОLじゃないんだからさぁ」
臨也は口をへの字に曲げて、ふん、と鼻を鳴らす。お前こそ子供かよ、って思ったけど口には出さなかった。こいつは一回へそ曲げるとなにかと面倒くせぇ。
しばらくして、何を納得したのか「まあいいよ」と肩を竦めた。
「それより、酔ってて覚えてないなんて言い出さないだろうね?」
「……勝った方のいうこと何でも一個聞く、だっけか」
不本意ながら覚えてる。
臨也は満足そうに頷いた。
「で、なんでこれが関係あんだよ」
「それはまあオプションみたいなものさ」
「オプション…?」
「気分を盛り上げるためのね」
「………」
嫌な予感しかしてこねえぞ。気分って何の気分だ。
臨也が口の端を、こうつりあげて、にたぁ、としか表現できない笑いを浮かべた。一歩下がる。
「シズちゃんさぁ、この前結構有給がたまってるって言ってたよね」
「覚えてねぇ」
「俺は覚えてる。あとここ最近忙しかったから、その分三日連休がもらえるとも言ってた」
「………」
過去の迂闊な俺を呪う。手前のせいで、俺は多分いま窮地だ。
「ま、三日間で妥協しよう」
「は?」
「俺に監禁されて」
「………」
やべぇ脳みそが一瞬ついてけなかったぞ。監禁ってあれだよな。手錠とか目隠しとかして、こう女を自分の部屋に……って、今俺の手の中にあるのはなんだっけか。
(足枷だ)
ってことは女じゃなくて監禁されんのは俺……。
「―――はぁ!?」

こいつと喧嘩を初めて約十年。わからねぇわからねぇ、と思い続けてきたが、本気でわからねぇ。
半年前、何の因果か喧嘩の後に抱き合うような関係になっちまったが、実質こいつのことはこれっぽっちも理解できた気がしねえ。
宇宙人と交信してる気分にさせられる。

こいつが「俺たちは一緒に生きるべきだと思う」なんて妙に真面目な顔でいいやがるから、うっかりこっちも「そうかもしれねぇ」なんて思い始めて、俺たちはお互いすみ分けるための整理をし始めてる。
といって、俺はこいつの胸糞わりぃ趣味は遠慮なく叩き潰すし、こいつだって池袋での悪巧みを一向にやめようとはしやがらねぇ。
そこらへんは、お互い今でも本気でむかついているし、そのことではしょっちゅう喧嘩する。
時々、こいつの顔見てると反吐が出るって思うこともあるし、あっちだって「そういうところ、我慢ならない」って何回も言う。
そういう時は、ほんとこいつとやってくとか出来んのか、って本気で思うし、どうすりゃいいんだ、って真面目に考えたり、そもそもやっていく必要があるのかも考える。たいてい考えたことは、寝て起きたら忘れてるけどな。

今ん所、それでも俺たちはなんだかんだ一緒にいる。なんだかんだっつーのは街中で害虫駆除にのりだしたら、いつの間にかそういう雰囲気になって臨也の家になだれ込む、なんてことも起こりえるっつーことだ。世も末だ。
昔の俺がみたら腕に鳥肌立てて今の俺を殺しに来るだろう。「気色の悪いことしてんじゃねぇぇぇえ」って。ごもっともだ。申し開きもねぇ。だがそうなっちまったもんはなっちまったんだから文句言うな。
はたから見りゃ、さぞかし奇妙なんだと思う。
ただ、やってみれば矛盾しなかっただけだ。全力で喧嘩して、全力で抱き合う。すげぇセックスとかそういう意味じゃねぇぞ…いや何言ってんだ。
つまり、男同士だ。手間も暇も半端ねぇ。いっそ擦りあいだけで終わらせりゃいいものを、こいつは手間も時間もじっくりかけて俺の中に入ってきやがった。考えても見ろ。俺だぞ? 切れても次の朝にはなおってるっつーのに、こいつが最初に中に入ってきたのはついひと月前だ。その時は、こいつの指と俺のケツが溶けて融合するんじゃねーかってくらい長いこと慣らされた。
いや、その前からなんつーか乳首舐められたり、ケツの穴いじられたりしてて、たぶんこいつは俺のケツノアナを狙ってるんだろーなーと予想はついたわけで、つまり拒絶しなかった俺も俺なんだろーなーと思わなくもない。
最初は指一本いれられただけで、脳髄突き上げる痛みで鼻の奥がツーンってして涙ぐんでたけども、最近では別の意味で涙がでてきやがっ……いや、いい。なんでもねぇ。

まあともかく、色々と必死で、ときどきほんと馬鹿じゃねぇのとは思うが、まあ正直言って悪かねぇよ。気分的にな。
――だがまあ、これとそれとは話はまるで別だ。頬が盛大にひきつった。

「手前にそんな趣味があるとは知らなかったぜ……このド変態野郎が」
「そうかな。意外にスタンダードな欲求だと思うけど」
臨也は手を伸ばして、俺の首に触った。
犬にするように、顎の下をこしょこしょと爪でなでられる。くすぐったいが笑うのもしゃくで、顎をそらして顔をしかめた。


(中略)


――また匂いやがる。

と、思う。多分、きっと。鼻をうごめかすと、やはり、する。
ほんのかすかに、部屋の空気が甘くてまるい。
(何の匂いだ?)
ふんふん鼻をうごめかすと、耳元でぶつんと音がした。
「どうしたの?」
「いや……」
「さっきもやってたけど、何か気になる?」
「………なんでもねぇ」
むっすりして答えると、あきれたようなため息が聞こえた。マイクの通信が途絶える。
(くせぇ…)
監禁されて多分ほぼ一日たとうとしてる。この事務所に降りてきてから何度か時々香る匂いがある。三十分おきだったり、二時間しなかったり。
それがなんか妙に気になってしょうがない。
(芳香剤にしては幽かすぎる)
臨也の匂いじゃあねぇ。香水は時々甘いが、丸くはない。このまるさは、どことなく女を思い起こさせた。匂いは時々ふっとするだけで、すぐに消えてなくなる。
それこそ、通りすがりのように。だが、オフィスを通りかかる人間なんかいるはずねぇ。
ますますわからない。
ただ、その意味の分からなさは、ふっとある考えを呼び起こす。
(女……?)
目も、耳も聞こえない俺と臨也のほかに、この部屋に誰かいるのだろうか。
(いや、さすがに考えすぎだろ)
第一俺の事を監禁してるのに女を連れ込む意図がわからねぇ。
とはいえ、何かしらあるだろうことは確かだ。
臨也のあの臭いは、あいつが俺に喋りかけてきやがるたんびに強くなってやがる気がした。ただ、いつもと違ってなんとなく確証が持てない。イライラする。
むっすりとして応じなくなってからは、マイクのスイッチすら入れなくなりやがったが。監禁についても、やっぱりなにか企んでやがるのか。いや、もしそうなら俺を事務所なんかにつれてくるか…?

(ああ、くそ。考えるのは苦手だ……っていうかなんで俺がこんなことグダグダ考えなきゃならねぇンだよ)

一度むっとすると、イライラがたまってくんのが自分でもわかった。
急にとてつもなく煙草が吸いたくなって、そういえば今日はまだ一本もすえてねぇってことに気が付く。
煙草はたけぇからそうばかすか吸ってられねぇけど、今日はそれにしたってちょっと吸わなさすぎだ。
「臨也」
「なに?」
答えはすぐにあった。
「煙草すいてぇ。俺の、ズボンのポケットに入ってたろ」
「……三日くらい我慢できないの?」
「一日でもニコチン切らした死ぬ」
はあ、ってわざとらしい臨也のため息が聞こえた。
「ちょっと待ってて」
ほんの一分くらい何の音さたもなかった。
それから、深く息をする音が、イヤホン越しに聞こえる。
「臨也?」
ふー、と臨也が息を吐く音がした。
「シズちゃん、手触るよ」
「お、おう」
「煙草、もう火がついてるから。気を付けて」
ってことは、こいつが火をつけてふかしたのか。臨也は俺の手を取って、人差し指に小さな煙草を触らせた。受け取って、口元に持っていく。
一日ぶりの煙草。
臨也も咥えたであろうそこに口をつけて、肺の奥まで吸い込む。ふう、と煙を吐き出すと、臨也が「これを機に禁煙したらいいのに」そんなことを言う。できたら煙草高くなったときにしてる。
「うわ、一瞬でたばこ臭い」
「これとっていいならベランダですってくんぞ」
臨也がため息をつく。「ここでどうぞ」煙草より目隠しの方が比重でけぇって。
(それだけこっちに意味があるってことか?)
部屋の中が煙草の匂いに満たされる。一瞬にして甘い匂いが押しやられて、ほんの少しほっとした。
けどまぁ、根本的な解決にはなってねぇけど。
なんどか煙草を吹かすと、臨也が「かして」と手を引いた。
「なんだよ、まだ残って…」
「灰が落ちて火事になったらどうすんの」
いうと、俺の手を取ったまま、灰皿の上でぽんぽんて灰を落とす。
「はい」
「………」
「なに?」
「煙草も自分ですえねぇとか……」
「なんならトイレも手伝ってあげるけど」
「殺すぞ」
さすがにそれくらいは自分でできる。
一本吸い終えると、最後は自分で灰皿に放り込む。
「終わった?」
「うまかった」
灰皿を受け取って、臨也はまた沈黙した。
仕事してんのかな。それにしても暇だ。
つーか、仕事してるなら、俺ここに居る意味あんのか? 心底そう思う。
(……本当に仕事してんだろうな)
「………」
俺は足で地面を探って、ゆっくり立ち上がった。
気づいたのか、臨也が「シズちゃん?」不思議そうに声を上げる。
手を前に伸ばして、一歩、二歩。手をつかまれた。
「どうしたの」
「なんでもねぇ。いいから座っとけ」
「いや、危なっかしいよ。すぐそこ俺の机だし、パソコンとか落とされても困る」
「お前の机そこなのか」
「そうだけど…」
不審そうに臨也が言う。
一歩踏み出して、手を伸ばす。固い角に触れた。
手を滑らそうとして、さっき花瓶を落としたことに気が付いた。さて、どうすっかな…。
机のヘリを持ったまま、ゆっくりとしゃがみこんだ。

「ねえ、ほんと何してんの…?」
「気にせず仕事してろ」
「いや無理だろ」



*****



おおむねこんな話です。

足枷かけられて二人がもだもだするお話。

よろしくお願いいたします。








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