過不足はないのです




猛烈に腹が減っていた。
(死ぬ)
今日で絶食は1週間になる。
(さみぃ…)
静雄は河原の草むらに転がっていた。
春から夏にかわろうかという季節だ。
夜、コンクリートではさすがに死ぬだろう、と理性が3日前に働き、それからは学校近くのこの河原を根城にしていた。
いわゆるあれだ。
ホームレス。
この名前を考えた奴はバカだと思う。
だって捻りがひとつもない。
そのままだ。
家なし。
ただ、これ以上ないほど現状を表している、とは思う。
(わびしい…)
家がない。
金もない。
だが借金はあった。
たしかに大学の学費を親に借金という形で借りていたし、一人暮らしをするにあたって仕送りはない。
断ったからだ。
だが、それは毎月のバイトでやりくりできるものだったし、5月までは上手くいっていた。
問題といえば…。
静雄は地面に投げ出されたこぶしを、握り締めた。
砂を掴む。
同じように掴んで粉々になったものはいくつあっただろうか。
大学に入学してから落ち着いていた不良とのいさかいが、ここに来て再燃した。
ブチ切れて、一人目を伸してからは連鎖反応だ。
高校と変わらない。
積み重なった借金は、全てぶち壊した標識だとか車の修理代だった。
正直もはや、払える気がしない。
家族に迷惑をかけるなど論外だ。
話してすらもいない。
友人はそもそも存在しなかった。
首が回らないとはこのことを言うのかと、齢19にして学習してしまった静雄である。
静雄は決して頭がよくなかったけれど、それでもどうしても学びたい事があった。
だからこそ、死ぬ気で学んで入った大学も、――結局のところ最近満足に出席できていない。
(ザマァねぇ。本末転倒っていうんだっけか…こーいうの)
壊したものに、真綿で首を絞められて、じわじわ殺される。
手のひらに、不良をなぐりとばした際の感触が甦り、苦笑した。
(なるほど、そこそこ似合いな死に様かもな…)
などと自嘲気味に目を閉じたときだ。
「なにをしてるの?」
声が、落ちてきた。
ぱちり、と目を開く。
飛び込んできたのは、夜と、とうに息絶えた夕焼けの色だ。
沈むように黒く、赤い。
随分、不吉な色だな。
静雄はしばらくじっとそれを見ていた。
黒い影が、首をかしげる。
「何してるんだいって、聞いてるんだけど。もしかして口も利けないくらい弱ってるのかな?」
「――あ?なんだお前、人間か」
「……なるほど、相当弱ってるらしいね」
おい、いまぼそりと「頭が」って聞こえたぞ。
そうなると静雄にもようやくその黒と赤の塊が、黒いフード付きコートをかぶった男なのだと理解できた。
人の頭の傍に立って、こちらを覗いている。
「へえ、もしかして立てないのかい?あんがい内側からの攻撃には弱いのかな」
男は目を三日月にして笑った。
ぞう、と静雄の首筋の産毛が逆たつ。
怖気だ。
いま、男は、明らかに静雄を観察した。
(きにくわねえ)
一目でそう思った。
言ってしまえば、におい、とでもいうのだろうか。
瞳から、唇の端から、しぐさの一つ一つが癇に障る。
全てのパーツが繊細にできているくせに、にじみ出る男の内側のものが、静雄をとことん不愉快にした。
低く、うなる。
「みせもんじゃねぇ、うせろ」
「きみ、喧嘩人形のヘイワジマシズオだろ?」
「…」
静雄は押し黙った。
自分の不名誉な二つ名である。
赤い目が笑った。
「化け物みたいな力を扱うそうじゃないか」
「だったらなんだ。足首くだかれねぇうちに消えろ」
「拾ってあげようか」
「…あぁ?」
「死にそうなんだろ?」
眉間の皺を深くした静雄に、男は笑みを深めた。
そうしてポケットに突っ込んでいた手を出したかと思うと、その手に握ったものを、静雄に突きつける。
それは灰色のIDカードで、静雄もいやというほど見慣れたものだ。
大学の生徒証。
澄ました顔で写っているのは、どう見ても静雄の前で笑う顔である。
オリハライザヤ…折原臨也。
静雄は学生証に書かれた名前を読み上げた。
偽造でない限り、男の名前はそういうらしい。
臨也が、にっこりと笑う。
「うちは今3部屋あるから、一間まるまる明け渡そう」
「は…ぁ?」
「別に珍しくないだろ。大学生が、友達の家に転がり込むなんてことはさ」
「なんのつもりだ?」
「善意さ。困ってる友人は放っておけないだろ?」
しゃあしゃあという、その舌を、静雄はにらみ返した。
「……おれはてめぇなんぞの友達に堕ちた覚えはねぇ」
「これからなればいいじゃないか。何か君は俺の事を深く誤解してるだけかもしれない、そうだろ?」
「……」
たしかに、静雄は男のことを何も知らなかった。
一瞬押し黙り、静雄はいう。
「目が気にくわねぇ」
「……目?」
「なんで他人をそんな目でみられるんだ?きしょくわりい」
「……」
こんどは、臨也が黙る番だった。
目をくりかえし瞬いている。
静雄は自分の力が化け物じみていて、それが人間の範疇から超えていると知っていた。
けれど、人間が視覚に囚われる生き物で、自分が人間の形をしている限り、他者から初めて向けられる目はどうあっても人間にむけられる範疇を超えないことも知っていた。
だからこそ、臨也の、どこかから見下ろすような、観察するような、例えて言うなら実験モルモットを見るような目は、平素から他者に向けられているものなのだと察せられた。
人間を、自分と同じフィールドに生きるものと認めていないのだ。
それは、手のひらで人間を転がす楽しさに溺れる反面、背中合わせのように「こんなものか」という嘲りと諦観がつきまとう。
臨也は暫く黙って静雄を見ていたけれど、
「ふうん…」
顎に手を当てて、感心したように頷いた。
そして、よく出来た子供を褒めるように、微笑む。
「まさか初対面でそんなことを言われるなんて思っても見なかったな。面白い。実に興味深いな」
「何の話だ」
「普通とは違う君を友人に出来るのかと思うと、とても楽しみだってことだよ」
底が知れるほど薄い言葉と、底知れない色をやどした目に、静雄はまた首筋がちりちりとざわめくのを感じた。
臨也はそんな静雄を知っているのか否か、もう一度ポケットにてをつっこんだ。
そうして、中身を差し出した差し出し笑う。
そこに乗っているものを見て、静雄はわずかに瞠目した。
「それ、は…」
「そう」
臨也は頷いた。
「――カスタードプリンだ」
ただのカスタードプリンではない。
大学近くの個人商店でしか販売されてない、自家製プリンだ。
ウコッケイのユウセイランを使っているとかで、コンビニの2倍高いそのプリンを、静雄は心底愛していた。
でも食べることが出来るのは極たまに。
せいぜい2度食べたくらいである。
家族ですら、静雄のこのプリンに対する愛情を知らないだろう。
第一金に困ってからは一度も食べていない。
それなのに、男は小首をかしげて、微笑んだ。
「たしかこれが、いちばん好きだろ?」
「……」
このプリンは宣戦布告だ。
静雄は直感した。
男は予想よりも静雄を調べていて、如何にその情報が正確かつ深い部分まで収集できるかを示している。
危険だ。
静雄が弱っている今、男に逆らうのは、良い手ではない。
それを知らせるプリンだった。
同時に、この差し伸べられた手は、どうあったとしても『善意』ではない、そのことも示していた。
沈黙したのは、ほんの少しの間だろうか。
「――もらう」
「お、そうこなくちゃね!」
笑顔の臨也を見上げ、静雄はプリンに手を伸ばす。
「……いっておくが」
自然、舌打ちが漏れた。
「オレは簡単に恩をわすれる人間じゃねぇぞ」
「そう」
臨也はすこし驚いて、はにかむように微笑んだ。
美しい笑顔だった。

「それは…期待してるよ。シズちゃん」

臨也は、伸びた静雄の手をとって、それから助け起してやった。
自分の家に連れ帰るために。
のちのち思い出せば、あの笑顔は有望な『駒』が手に入ったと喜ぶ子供の笑顔なのだった。





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