俺と静雄が同棲をしはじめて、はやいことでもう三カ月がたつ。
風呂上りの髪をタオルで拭いながら、静雄は片眉を器用に跳ねあげた。仕事でたっぷり汗をかくので、帰っていの一番風呂に入るのだ。
俺は布団から頭だけ上げて、じっと静雄を見つめた。気づいた静雄が「起きたか」そういって、少しだけ目を優しくする。
どうしたんだ? そう目で問いかけてやれば静雄は首を傾げた。
「いや、なんか変な手紙が来ててよ」
狭い部屋の中央にあるちゃぶ台の前に座る。俺も、一度伸びをしてたちあがると、静雄の傍に腰を下ろす。
静雄の手の中にあるのは、真っ黒な四角い封筒だった。普通のものより、ほんの少しだけ大きく厚みがある。
「仕事場に届いてたのを受け取ってきたんだが……差出人の名前がねぇんだ」
表と裏に返しながら、静雄は眉根を、ぎゅうっとよせる。
「住所も宛名も確かにこの家の俺宛なんだけどよ。俺に手紙なんて……。しかもこの真っ黒い封筒、なんか嫌な予感がすんだよな」
ふぅん? 確かに変な違和感がある。高そうな紙だけどな。
夜の色をした封筒は、どこか普通の手紙と違う気がした。
静雄はこの街で、郵便屋さんをしている。俺が「手紙」を見知っているのはそのせいだ。
坂や階段の多いこの街では、郵便屋はだいたい足を使う。前に静雄が、そう楽しそうに話して聞かせてくれた。「原チャ」とやらは階段の下まで、ほとんど駆け足のような速度でしか走らない。
階段を上って、ほかより一段高い家の前につくと、晴れた日には海が空を映した鏡みたいに見える。水平線を覆う真っ白な雲だけが、空と海の境目を教える。遠くにそれを見るのが、静雄の楽しみなのだそうだ。
静雄が働く郵便局には定年間近の局長がひとりと、事務の女性が一人、ほとんど顔もあわさない配達員が2名いるだけだという。局長が規定も気にせず静雄の手紙を渡す程度には、ゆるやかな職場だ。
けれど静雄はふいにつまらなさそうな顔をして、ため息をついた。
「……ったく、なんか面倒事じゃねぇだろうな」
その目がそっと冷たい色を帯びる。ちょっと驚いた。穏やかな静雄にしては珍しい。不似合いな硬さに見えた。
(……疲れてるのか?)
膝の上に頭を置いていたせいで表情がよく見えた俺は、そのままころりと転げて、声をかけてやった。
「にゃあ」
俺は普段めったにしゃべらない。静雄が目を覚ましたみたいにしばたいて、それから和らげる。
「そうだな、先に飯だよな」
手を伸ばして、そうっと頭を撫でてくる。そのまま首の下をちょっとかいたりするので、俺は静雄がしたいがままにさせてやった。自慢にしている尻尾をピンとたてる。静雄の手は、同居してずいぶん経った今でも、指先で表面をなぞるように、恐る恐る撫ぜた。俺はそんな静雄を、じっとみつめる。
風呂上がりの静雄は皮膚が温まっているのか、やわらかそうに見える。仕事が終わって気が抜けて、目もどこかぽやっとしていて優しい。うなじにしっとりと張りつく茶色の髪が、淡い照明に輝いていた。
(なんかキラキラ光ってるみたいだな)
じゃれかかれば、静雄は片方の手を後ろについて、首を傾けて笑った。思わず見とれるほど柔らかい空気に、気を取られた時だ。
静雄の手がそっと俺の指に触れた。そこには真っ白な包帯が巻かれている。静雄の目が、鋭くなる。
「……おまえ、また噛んだな?」
「……」
「おい、目ぇそらすな。ダメだっつっただろうが。治りかけてんのにまた傷になったらどうすんだ」
俺は返事の代わりに静雄の指をそっと舐めた。静雄はくすぐったそうに目を細め、あわてて「あのな……」がんばって難しい顔をしようとした。でも結局「しょうがねぇ奴」と呟いてそっぽを向く。微妙な含蓄をみせるのも、静雄の可愛いところだ。
「飯の後に包帯かえてやるよ」
静雄は俺を畳におろして、立ち上がる。
俺の飯と、静雄の飯を用意するのだ。ご飯は一緒に。俺と静雄の決め事だ。俺のご飯は味の薄いキャットフード。機嫌がいいときは鰹節をかけてくれることもあるが、今日は望み薄だろう。
俺はちゃぶ台の上に放られた、真っ黒い封筒を睨み付けた。さぞや怨念が込められていたと思う。鰹節は俺にとってそれだけ重要なのだ。
何故ならば、俺が『人間』が言う処の、猫という動物だからである。


俺が静雄に拾われたのは、雨が降りしきる梅雨のころだった。よく覚えてる。なぜなら雨のせいで、俺は後ろから近付く『人間』の気配に気が付かなかったのだから。
俺は散々蹴られて、ゴミのように草むらに転がっていた。夜中の公園で、そいつらは高い声で笑いながら、俺の体を押さえていた。そのうちの一人が、ポケットから何かを取り出した。『授業』とやらでつかったイトノコノハというものらしい。キラキラと光るそれが俺の右腕に押し当てられた時だ。
すさまじい痛みとともに、雷のような声が聞こえた。
「手前ら、何してやがる!」
それが静雄だった。
静雄が公園のそばの標識をひっこぬけば『人間』は蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。なんだか体が動かなくなっていた俺は逃げ遅れたわけだ。静雄に抱えられるままあれよあれよという間に静雄の家に連れて行かれた。真っ白い服を着た「しんら」が現れて押さえつけられるし怖いしで散々暴れたけれど、そのあとはすとんと痛みがマシになった。
俺は静雄のアパートに閉じ込められた。『人間』と同じ姿かたちをした静雄に、俺は当然、吐くほど嫌悪感を覚えて、本気で逃げようとした。静雄はそんな俺を決して押さえつけたりしなかった。ただ、腕に巻かれた包帯を引きちぎろうとした時だけは、こわごわと手を出してくる。そして指先を俺に噛まれることを良しとした。
後から気が付いたけれど怪我をしていた俺は、その時熱があったらしい。あっという間に床に沈んでは、静雄がつくったやわらかい寝床に横たえられる。静雄はもくもくと、俺が吐き戻したものや壊したものの後片付けをした。
そんな風に過ごしていたら、さすがに分かる。
静雄は『人間』なんかではなかった。
俺の爪も牙も、静雄には全然届かなかったし、何度も噛みついてようやく血のにじんだ指の傷は、あっという間に治っていった。そして何より、全身真っ黒な俺を見ても「怖い」とも「気味が悪い」とも言わず、甘やかすように目を細めるからだ。
「きれいな夜の色だな」そう言って笑う。
俺はしばらく、静雄がだしたものには極力口をつけなかった。静雄はそのたび困った顔をすることになる。
「おまえ、頑固なところがちょっと、似てる」
誰に? 静雄はきまりが悪そうに笑って、はぐらかす。
そんなことを繰り返されたら、出されたものを警戒しているなんてばからしくなって、俺はとうとう鰹節を口にした。
ひと月、俺が静雄を信じるまで、その程度かかった。ずいぶん早く思えるかもしれないが、俺は静雄がいないと食事もできなかったし、トイレだってままならなかったんだ。静雄はできるかぎりつきっきりで看病してくれていて、つまるところ俺の世界は一気に静雄に染められた。俺は静雄なしでは、生きられなかったのだ。静雄は俺の世界になった。それに静雄は『人間』じゃない。なら拒む理由は何もなかった。
俺たちは急速に仲良くなった。静雄は、けがが治るまでは家から出ないこと、治ったらどこへなりとも行っていいこと。ふたつを俺に噛んで言い含めた。
アパートは人間以外はすんじゃいけないらしいが、黙っていればわからない。
「俺だって住めてるくらいだからな」
静雄はそういって、爪砥ぎを柱でしないこと、トイレの場所などを俺に教えた。俺はもともとほとんど喋らなかったので、その点は安心だと静雄はいった。俺は大事な友人に甘えることを覚えて、静雄も「ちょうど、一人に飽きたところだったんだ」そんなことを言った。
今ではもう、けがが治ったところで、俺の行き先は静雄の膝のうえ以外かんがえられない。



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おおむねこんな話です。

第三者と静雄と臨也のお話です。

よろしくお願いいたします。








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