「で」

新羅が満面に笑みを浮かべて、包帯をひっぱりだした。
「一応安静にっていっておいたはずなんだけど。なんでけが人が出てるの」
「不可抗力だ」
苦い顔で静雄がいう。
その横では、臨也がソファに大人しく腰をかけていた。とはいえ、ふてくされた顔でそっぽを向いている。腕や頬に怪我の治療のあとが見えた。
すこし前の傷が、治りかけのようにも見える。
「不可抗力だって?俺は普通にベッドで眠ってただけなんだけどね。まさか寝起きに奇襲をかけられるとは予想だにしなかったよ」
「隣で知らない人間が寝てたら、普通驚くだろ」
「おかげで写真たてが全部割れたんだけど」
「それは…投げた位置が悪かったっつーか…」
静雄はすこし戸惑った顔で臨也を見た。
そして生傷の絶えない皮膚をみて、「悪かった」と小さく呟いたのだ。

なるほど。
新羅は微笑んだ。
記憶がもどる兆しの欠片もない。
記憶のある静雄なら、まず問答無用で再び投げ飛ばしている。
それだから、臨也のこの不機嫌もわかるというものだ。
「残念だったね。一向に戻る気配もなさそうじゃない」
「いいから黙ってちゃんと診察しろよ、新羅」
「はいはい。その前に君の肘のところ、湿布だけじゃ不安だからネットもかけておこう」
いって、新羅は清潔なネットを臨也の手にくぐらせた。
その様を、なぜか静雄が食い入るように見ていた。
「なに?」
気づいた臨也が問う。静雄は首の後ろをかいた。
「いや…マジでお前ら知り合いなんだな」
「朝いったじゃん。ついでに今日は、定期検査だって」
「そうだけど」
新羅は静雄の目の検査と、いくつか簡単なヒアリングを行った。

「うーん、これといって変化はないね。なんていうか、とても安定してる。健康体そのものだ」
臨也は面白くなさそうに付け加えた。
「脳みそ以外だろ」
「どうだろ。特に処理できないほど負荷がかかってるわけでもないし、問題ないんじゃない」
「…新羅、おまえ治す気ないだろ」
「そういうわけじゃないさ」
臨也ににらまれて、新羅は肩をすくめた。
「ただ、医者としては現在の状態をキープするのも選択の一つとして有りだってことだよ。どうも話を聞いていたら、静雄にだって記憶の断片のようなものが見える。でもそれが静雄の負荷にならないように綺麗に処理されてる。ということは、今の状態は記憶を失っているにしてはものすごく理想的に安定してるってことなのさ。記憶を無理に戻すのに、負荷がかかることを考えたらね」

臨也の口の端がひくりと引きつった。
やっぱないだろ、コノヤロウといところだろう。
新羅は小さく笑った。
「どうだい、静雄。君は思い出したいと思う?」
「あー…」
静雄はちら、と臨也を横目で見た。
気づいた臨也が「何」というように視線で睨み返す。もう反射のようなものだ。
「まあ、別に記憶がもどらないならそれはそれでいいんだが、新しく覚えていく事もできねーってのは、不便だな」
「まあ、確かに臨也の人となりを知らなきゃ、防衛策もとれないしねぇ」
言葉一つ一つに、棘がある。
実のところ、セルティが静雄の心配ばかりしているのが関係しているのだが、2人には関係のない話だ。
臨也が鼻で笑う。
「あのさ、シズちゃんに対策練るような頭あると思うの?」
「おい…」
「でも、少なくとも君を身の回りに寄せ付けないだけの防衛本能は目を覚ますんじゃないかな。そしたら、この前みたいなことはもうなくなるじゃない」
新羅の言葉に、静雄が視線を鋭くする。
「この前…?」
「うん。君たちが同居し始める前の話だよ」
「おい、新羅…!」
慌てた臨也が「やめろ」と視線で脅してくるが、それよりもっと迫力のある目がいった。
「詳しく聞かせろ」
「別に、大したことじゃないよ。まあいってみれば何時ものこと。日常さ」
顎をしゃくって、先を促す。静雄の横で、臨也が額に手を当ててうな垂れた。
「臨也が君にカラーギャングをけしかけたり、暴力団の組員に麻薬売ってるって疑いをかけさせてみたり、挙句海外のスパイか何かに狙われるように仕向けたりして、君危うく死ぬところだったんだよね。ほら、覚えてない?やたら喧嘩吹っかけられたり、銃で撃たれかけた日、あるだろ?」
「は…」

静雄が目を剥いて、新羅を見た。そのまま臨也を見る。
臨也は気まずそうに口元にてをあてて、そっぽを向いた。
「色々衝撃を与えたら、記憶が戻るかと思ったんだよ」
実は完全にただの腹いせだったし、いっそのこと死んでくれたらという願いがあったなんてことは言わない。多分新羅もわかっていることだ。

「安静にさせろって言う、私の意見は完全に無視だよね!」

新羅がイイ笑顔でいった。怒っている。臨也は歯牙にもかけず、鼻で笑った。
静雄が、先ほどより幾分低い声で言った。
「それで、どうなったんだ。あれからは特に命狙われた記憶はねぇぞ」
「うん、それが不思議なものでね。きみったら臨也を見つけて、それでなにがどうなったのか、2人して抱き合ってサンシャインの屋上から飛び降りたんだよね」
「……」
「あの時はさすがに、もうダメかと思ったよ。まあセルティがこう、影で網作ってくれたおかげで死ななくてすんだけど」
「……」
「セルティは全く、タイミングも機転のよさもいいすばらしい女性だよね!」
脱線の気配を感じたのか、静雄が、更に低くなった声で先を促した。
「……それで」
「ああ、えっと、うん。ああそうそう。それで結局、翌日きれいさっぱりその出来事から臨也のことを忘れた君の前に、何食わぬ顔で現れて、思いっきりキスしたんだよ。確か。池袋駅の西口で」
「……」
「見せられた人たちがほんっとうに気の毒でならないよね!」

とてもそうだね、と同意できる話ではなかった。
どこの映画だ?と聞きたいところだが、話の断片に身に覚えがありすぎた。
確かに静雄は二週間弱ほど前に、何者かから一日中拳銃で狙われ続けるというありえない体験をした。
その日以降何も起こっていない、平穏無事な生活をしている記憶がある。まさかそんな事情があったなんて…。
「それで臨也ときたら、次の日にはもう君の家に転がり込む始末だしね」
「なるほど…」
静雄は最早俯いていて、表情は伺えない。ただ声は地を這うように低かった。くまれた腕に幾つか血管が浮いている。
臨也が、舌打ちをした。
「……新羅、あとで覚えてろよお前…」
「全部真実じゃないか」
あっけらかんという新羅に、反論できないのは、単純にそれが真実だからである。
臨也は鼻を鳴らして、それから静雄をみた。
「いっておくけど、同居は同意の上だからね。あと、キスしたことももう君とは話はついてるから」
静雄の目は綺麗に見開かれていた。爛々と、怒りを宿した目が輝く。
「俺とはしてねぇ」
静雄が唸る。
「したんだってば」
「覚えてない」
「君が忘れたからだろ!」
臨也は憤然としていった。

にらみ合う2人は、以前となんら変わりがない。
新羅はのん気に笑ってみていた。
「それで、どうだい静雄。実際のところ、臨也と同居してから」
「あ?覚えてねぇしわかるわけねぇだろ」
一刀両断である。
記憶の中を探ろうともしないあたり、本能的なストップがかかっているらしい。
臨也の目が憎憎しくかがやいた。

「臨也のほうはどうだい?」
「俺?」
不審そうに眉根を寄せられる。
めがねの奥で、新羅の目がほんのすこし鋭い色を帯びた。
「箱の在り処はわかりそうかい?」
「……」
沈黙した臨也の横で、静雄が「箱?」と目を瞬く。
「おい、なんだ箱って」
「いうなれば君の記憶の箱さ」
静雄はわからないかおをした。
「君は記憶を消してしまったんじゃない。自分の中の箱にしまって、奥に奥に隠しすぎて思い出せないだけなんだよ」
「……」
「それをもう一度みつけたいのか、それとも大事にしまっておきたいのか、それはもう君次第だと僕は思うよ」
静雄は黙って聞いていた。
表情が一つも変わらないから、何を考えたのかはわからない。
そんな静雄を、臨也はちらと一瞥する。
そんな2人を見て、新羅は微笑んだ。

「まあ、急ぐ必要もないさ。君が記憶をなくして、明日で丁度一ヶ月。君たちのどす黒く彩られた濃い歴史を思えば、たった一月くらい息をつく暇があったって、罰は当たらないよ」



***



身震いをして目が覚めた。
寒い。

寝起きではっきりしない頭を振って、体を起こす。
時計を見ると、もう7時を回っていた。
起きなければ。
頭をかきながら、ベッドをでる。
静雄はやけに寒い室内に身震いして、暖房のスイッチを入れた。ストーブで暖まる前に、顔を洗わなくては。
洗面所にいき、冷水で顔を洗うと、腕に鳥肌が立った。
頭がはっきりとする。
(トーストあったっけか)
昨日の朝も焼いたはずなのに、覚えていなかった。台所にいってみると、食パンはどこにも残っていない。
使い切ってしまったらしい。
「ちっ…」
ふと炊飯器の保温に明かりがついているのに気がついた。
開いてみると、甘い湯気が頬をくすぐる。
昨日の夜の内に予約セットしておいたのだろう。白米が炊きたて独特の湯気を立てていた。

「……?」

思い出してみるが、炊いた覚えがなかった。
パンがないことに気付いて炊いておいたのだろうか。
現に炊けているのだし、そうなのだろう。
静雄は深く考えないで、ごはんを茶碗についだ。
…が、茶碗をとろうと食器棚に伸ばした手が、固まる。
「……?」
食器棚の中に、見慣れないそろいのマグカップが置いてある。
オレンジと水色の、ストライプだ。
静雄は怒涛の如く沈黙した。
(こんなもん買ったっけか…?)
色違いの、おそろい。
彼女なし、一人暮らしの男の部屋にこれ以上ないほど痛々しく場違いだ。
一切の容赦なく、場違いだ。
そもそもまず間違いなく、静雄の趣味ではない。
しかし、固まっている間にも出勤時間は迫っている。
静雄は恐る恐る手を伸ばして、食器棚から茶碗を出した。しかし自分の茶碗に触れた手がびく、と震える。
「……」
夫婦茶碗。
「……」
身に覚えがない。
茶碗にご飯を入れて、卓袱台に箸と、ついでに冷蔵庫にあった梅干、たくあんをもっていく。
久しぶりの白米を、まりまりと噛み締めた。
「……」
咀嚼しながら、視線を部屋にはしらせる。
どことない違和感だ。
飲み込んで、すんと鼻を鳴らした。

「……くせぇ」

気のせいだろうか?甘ったるい臭いがした気がして、眉根を寄せる。
「……」
白米を、また口に含む。たくあんを取って放り込んだ。
なれない場所につれてこられた、野生の獣みたいだった。
静雄は住み慣れた自分の部屋を、見回す。
においが違う。
家族の写真たてがなかった。
調理器具が増えている。
アイロンの当てられたカッターが、壁にきちんとかけられている。
沈黙が耳に痛い。
「……」
もくもくと、噛んだ白米を飲み込む。
米の甘みが広がるのに、どうしてか、眉根を寄せる羽目になった。

「甘くねぇ…」

当たり前だ。
米が甘かったら恐ろしい。
菓子のように。
あるいはフレンチトーストのように。
だが思い当たる事は何もない。神経が過敏になっているのだと思った。
もう気にするのはやめよう。
静雄は、気を取り直した様子で、すこし離れたところにおいた梅干に箸を伸ばした。
卓袱台の前の席は、空っぽだ。
ただすこし向こうに、ヤニで黄ばんだ部屋の壁があるだけ。

『――シズちゃん』

箸がぴたりととまる。
『あのさ、俺のにまで手ぇ伸ばすくらいなら、端から二枚焼くから言ってくれない?っていうか、二枚やいたら食わないってどういうことだよ』
静雄の目が見開かれる。
その目が、壁紙を凝視する。
「―――」
声帯が震えるのに、言葉が出なかった。
だが、臭いが、声が、動いた軌跡が、記憶の中に白い人影を浮かび上がらせていた。
静雄の目はくっきりと、記憶に浮かび上がる白い空白をみていた。









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