孤高の獣





ゴム袋にプリンをつめたみたいな体を、極細ポッキーで支えたような危なっかしい生き物。
平和島静雄にとって、女とはそういうものだった。
甘い香りがするし、肌に触れると柔らかい。
なるほど、確かに心地よい。
けれどすこし爪を立てれば、あっけなく弾けてしまう。
その中身は勿論プリンなどではなく、真っ赤な血潮だ。
つまるところ、静雄は女に触れるのが恐ろしかった。
かつてこの『暴力』が覚醒して間もないころ、女性一人傷つけた。
そうすると、目の前のものもいつか壊してしまうのではないか。
物がわかり始めるころからそういった疑念が静雄につきまとい始めたのだ。
子供の頃だから、あのくらいですんだ。
今、あの頃より増した力で触れればどうなるのか…? 恐ろしくて試す気にもなれない。
しかし、生物として生きている以上、三大欲求というのはついてまわるわけで、静雄にも性欲は当然芽生えた。

初めはたしか、中学2年の頃だったように思う。
その頃からすでに静雄の周りには人は少なかった。
けれど大事な先輩や、気のいい友人は手のひらに乗るほどには存在していたし、怒らせることがなければ温厚な生物だということは周知だったので、クラスメイトも遠巻きにはしつつもあからさまに弾くということもなかった。
体育が終わった校庭の手洗い場だ。
静雄の隣でクラスメイトが泥だらけの手足を洗っていた。
数人の友人とはしゃいでいた彼は、友人に押された弾みでとっさに静雄の二の腕をつかんだ。
夏の、特に日差しの強い日だったように記憶している。
相手が静雄だと悟った彼は、雪女にであったように青い顔で平謝りすると、友人達と競ってその場を後にした。
その場には静雄だけが残った。
静雄はそっとつかまれた場所を指でなぞった。
怒るどころではなかった。

火がつくように熱い手のひらに、頭が真っ白になっていた。

その頃静雄の暴力も今ほどには育っていなかったので、同い年の少年に力の限りつかまれた部位が痛かった。
脳が何度も指の感触をトレースする。
まだわずかに丸みを残す少年の、けれど骨ばった指が二の腕に食い込む。その力強さに、静雄の胸が躍った。腰がしびれるという感覚を、静雄はそのとき初めて覚えたのである。
もちろん静雄が本気で掴めば砕けてしまうだろう。けれど、そのときの静雄には、少年の体は多少の力をもって触れても壊れない頑丈なものに感じられた。
恐怖と劣情は同居し得なかった。
だからこそ、壊れる恐れの少ない頑丈な体の持主。
――すなわち男に劣情を抱き始めたのも、無理からぬことだったのかもしれない。
もともと男が好きだったわけではないせいか、静雄が目で追うのは、男くさすぎないごく平凡な体つきの男が多かった。線が細すぎても女に感じるのと同じ、壊してしまいそうな恐怖が先立つらしかった。
姿勢は良い方がいい。
見目は甘い方が好みだった。
穏やかに微笑むのが似合う、すこし骨ばった手の男を、静雄は注意深く目で追った。
自分の性癖が特殊である事の自覚はあった。相手に不快な思いをさせるのは忍びない。
気づかれないよう、ごく些細な折に触れ、静雄は意中の男をみつめた。
決して接触はもたない。誰にも気づかれなかった。
これからも静雄は劣情を殺して生きていく。
相手と接触を持つ事もなく、悟られる事もなく、報われる事もなく、絶えるように息づいていくのだ。
そう思っていた。
―――高校に進学し、あの殺しても死なないような馬鹿ほど生命力の強い男に出会うまでは。



***


「いぃぃざぁああやぁあぁああぁぁっ!」
咆哮が空気を震わせる。
折原臨也は、その様を校舎の3階からみていた。
獅子のような獣は、校庭の真中で自分がちぎっては投げた死屍累々に囲まれて、雨に打たれている。
目の冷めるような金髪が、灰色の空にてらされて、本物の鬣のようだ。
怒れる孤高の獣に、近づく影はない。
「あーあ。可哀相に、死んでなきゃいいけど」
自ら差し向けた不良達にちらとも同情の見られない目で言ってのけ、彼はポケットから愛用のナイフと取り出した。
折りたたみの刃をなれた手つきでスライドさせる。
薄い刃が空気を振るわせたその瞬間、まるで音が聞こえたように静雄の目がこちらを向いた。
臨也は唇の端を吊り上げる。
本当に、あの化け物の感覚ときたらどうなっているのだろう。

「ケダモノ」

囁くと同時に走り出す。
放課後の校舎は、雨にもかかわらず人影がまるでない。
テスト期間なので部活動が全面自粛中なのである。
時折教室から声が聞こえたが、それも副教科教室の並びにいきつくとぷつりと途絶えた。
美術室、工作室、音楽室、…雨のせいで薄暗く、まぎれて気配は読みにくい。
普段なら罠を張るなり、張ったと見せかけて校舎をさっさと後にして逃げるのだが、そのときの臨也はなぜか音楽室に滑り込んだ。
ブラスバンド部が練習を停止しているため、譜面台が教室の奥にいくつか並んでいる他は、太鼓もピアノも起毛の布がかけられていた。
眠るように静かだ。
臨也は沈黙する教室を横切って、迷うことなく窓に手をかけた。
開け放つ。
途端、風が雨を巻き込んで突進するように吹き込み、臨也と地面を水浸しにした。
予想以上に風雨がきつくなっていた事に、臨也はため息をついた。
濡れ鼠になる前にそこを離れればいいのに、なぜかそこに立ったまま、濡れた髪などかきあげている。
明かりはつけなかった。
そんなことをしなくても、あの化け物は必ず追いついてくるだろう。
臨也は走ってわずかに汗ばんだ首筋に手をかけた。
詰襟の下に、今日は白いシャツを着ていた。
決して着ないわけではなかったが、梅雨のこの時期には珍しい。
ましてやシャツの下にTシャツを着込まないのはさらに珍しかった。
新羅は今日のこの姿を目撃し、ほがらかに「やあ臨也、誰か親戚が死んだの」と挨拶してきた。
葬式に出席できる程度に、正しい学生服の着方だったためだ。
あの友人は、本当に性根から失礼きわまりないが、目ざといのも確かだ。
それとも、あの化け物が気がつかなさすぎるだけか。
臨也は口元に笑みを浮かべると、詰襟を脱いだ。

瞬間、音楽室の扉が吹き飛んだかと思われる勢いで開け放たれた。

振り返る。
爛々と輝く目が薄闇に浮かぶ。
捕食寸前の獅子がいた。
「いーざぁーやぁーくぅん」
地の底を這う声に、指の関節を鳴らす音が混ざった。
「俺はな?今日かえって有嶋亭のプリンを食うっつー、大事な用事があったんだよ。なのに性懲りもなく変なヤツラけしかけやがって…おかげで貴重な放課後が台無しだ。覚悟は出来てんだろうなァ?」
「やあシズちゃん。その図体で甘いもの好きとかいう気色悪い情報振りまくのやめてくれない。迷惑だから」
「安心しろよ。脳みそごと殴り倒して忘れさせてやる。だからそこ動くな」
「やだよ、シズちゃんの腕力で頭殴られたら首、千切れるよ」
「千切れろ。むしろ千切る」
無理やり浮かべているのだろう笑みの他は、立ち上るような怒りが音楽室の空気を震わせた。
一歩一歩、近づく足音が粗雑なくせに、静かだ。
いつ飛び掛ってきてもおかしくない、殺気に満ち溢れている。
臨也は微笑を浮かべて、それから肩をすくめた。
「それにしても随分みすぼらしい格好だね。雨に打たれたドラ猫みたい」
それをお前が言うか、と言う程度に、臨也も雨に濡れている。
ようやく静雄は、臨也がいつも手放さない詰襟を脱ぎさり、なぜか風雨に晒されている異様な状態に気がついたらしい。
怪訝に眉根を寄せた。
怒りに困惑が混ざるのを確認して、臨也は微笑んだ。
しかしここで戦意を喪失されては、――困るのだ。
臨也は、静雄が何か言うより先にナイフを構えて地面を蹴った。
はっとして静雄が構える。
まさか臨也が向かってくるとは思わなかったらしい、二の腕を薄い刃で切り裂かれ、苦く舌を打った。
素早く躱す臨也の体を、鷲づかみにするように無造作に手が伸ばされた。
「いつも思うんだけどさあ、シズちゃんの喧嘩の仕方って子供の動作に似てるよね。いまのなんて玩具取ろうとするみたいだし、物なげるのだって癇癪起して駄々こねてるみたい。精神年齢の表れなの?」
「るせぇ、ちょこまか…」
逃げんじゃねぇ、と吠えるつもりだったのだろう。
けれどその声はがくん、とぶれた視界に潰された。
地面が動いた。
と静雄は思ったが、実際は脱ぎ捨てられた臨也の詰襟を踏んで滑っただけだ。
その体勢の崩れを、臨也が見逃すはずがなかった。
跳び、静雄の胸に膝で乗り上げ、床に引き倒す。
膝が、もろに静雄の鳩尾をえぐった。
静雄の息がつまり、苦悶の声が上がる。
マウントポジションを勝ち取った臨也が、いやらしく笑った。
「て、めぇ…臨也ァ…ッ!」
「あは、普通ならあばら折れるのに。さすがだねぇ」
静雄の袖をめがけてナイフを突き立てる。
肌を傷つけられればめっけもの、ナイフは静雄の服を床に縫いとめた。
ワックスがけされた床からは甘い木の香りが立ち上る。
臨也は目を細めると、静雄の顎を指ですくった。
疑問の声を上げる暇もなかった。
それくらい、その動作は自然で素早い。
臨也の長い節くれだった指が、静雄の頬をなでた。

「みて」







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