遭難





救いようがないくらい運の悪い日というのは、ままある。
大殺界と大凶運がかさなって、通学中に黒猫の合唱とカラスの大群をみるような、奇跡的に運の悪い日。
折原臨也にとって、まずまちがいなく今日がその日である。
彼は携帯を確認した直後、絶望したように頭を振った。

「信じらんない。ほんとマジありえない。なんのシズちゃん馬鹿なの死ぬの?」
「っるせーな、こっちだって信じたくねぇんだよこんな状況!」

噛み付いたのは、平和島静雄、臨也の天敵である。
頬やジャージは土で汚れている。金髪には葉っぱや小枝がひっかかっていて、全体的にどこかくたびれた様子だった。
とはいえ、臨也はそれを嘲笑う気はない。自分もさほどかわらない有様だと簡単に見当がついたからだ。
一緒にこの崖から転がり落ちたのだ。崖といっても60度近くある山の斜面だ。途中いくつか垂直の崖から落下したが大した高さでない事が幸いした。静雄は助かっただろうが、自分はどうかわからない。
転がり落ちながらも、きりつけたり蹴りつけたり、随分色んな方向にふっ飛んだせいだろう。ガードレールがあったはずの遊歩道は、見あげてみても一向に見える気配がなかった。(見上げている方向が遊歩道のある場所なのかも怪しい。)
その代わり乱立する木や、突き出た木の根がみえて、よくあれに頭をぶつけなかったものだとゾッとする。
臨也は、崖をみあげるのをやめて、あーあ!と声を上げて地面に座り込んだ。

「ほんと最悪。携帯おしゃかだし…」
「はっ、いいざまだな」
「助け呼べないっていってんだよ。何ドヤ顔してんの?馬鹿なのっていうか馬鹿だったよね!はっ、ごめーん気づかなくて!」
「んだとお?」
「おっと、もうこれ以上暴れるのはやめてくれるかな?さっきの二の舞になりたいわけじゃないだろ?」

それを聞くと、静雄は心底忌々しげに舌を打って、拳を納める。そして辺りを見渡した。
どこまで転げ落ちたのか…、足で登る前に十数分ロープウェイに乗ったので山のどの辺りかの判断もつかない。
空を見上げてみたがロープウェイは見当たらず、広葉樹が鬱蒼としげるだけだ。抜けるような秋の空がまぶしい。
丁度わずかに平らな地形であっただけらしく、2人が居る場所から十歩もいかないうちに、またなだらかな傾斜になっていた。
あれなら足で下れないこともないが…。
臨也はためいきをついて空を見上げた。
ああ、ほんと。なんでこんなことになったのか。

――とはいえもちろん責任の一端は臨也にもある。
来神高校の歩く導火線との異名を持つ静雄と臨也である。まさか2人で仲良く山登りに来たわけではない。
高校には課外授業というものがあり、来神では2年生は山登りと決まっていた。今日が丁度その日だったのである。
教師達も「この機会に静雄と臨也を仲直りさせよう!」などという気は一切なかったらしく、二人の班は生徒の列の頭とつま先くらい離れていた。
にもかかわらず、休憩所にて静雄はうっかり臨也をみつけ、よせばいいのに臨也は静雄をからかった。

すわ、大自然のなかでの戦争かと、誰もが思った瞬間だった。
殴りかかった静雄の拳が、臨也がこしかけていたガードレールをつきやぶった。
なんのためにガードレールがあるのかといえば、当然その先は危険だからである。
崖に頭からおちそうになった静雄は、あわてて何かつかまるものを探した。そしてその手は、手近なものをつかんだ。――つまり、臨也の胸倉を。
そうして2人は仲良く崖を転がり落ち、右も左もわからない状態になってしまったのである。

「あそこでさぁ、普通人の胸倉つかむかなぁ。まあ普通はガードレールを殴り潰すなんてできないんだけどね。君は普通じゃないんだから、もうちょっと後先かんがえるようにしなよ」
静雄のこめかみに青筋が浮いた。マスクメロンみたい、と臨也は思う。
しかしなんとか衝動を堪えたらしい静雄は、片手をジャージのポケットに手を突っ込み、もう片方でリュックを持ち上げると踵を返す。

「どこいくの?」
「てめぇなんかと一緒に居られるか!歩いて山下りる」
「へぇー、っそ。がんばってねぇ。俺はここで大人しく助けを待つよ」

静雄の背中にひらひらと手を振ってやる。
そういうの、救助隊が見つけられなくなるから良くないんだよ、と親切に教えてやる義理もない。
そのまま静雄を見送ろうと思った臨也だが、ふいに静雄が振り返って眉をしかめた。

「え、なに?」
「……なんかきもちわりぃ」
「はぁ?なにが」

言う間に静雄が戻ってきた。
臨也は慌てて立ち上がる。
じいっとこちらを観察する目に、

「ちょっと、ほんと何…?」

本気で予測がつかなくて眉をしかめた。
しかし、静雄は眉一つあげない、――あげないで、とつぜん臨也の脚をつま先で蹴った。

「……ッ!」

わずかに避けきれず、掠めるようにつま先が臨也の足に触れる。
その程度なのに、臨也は顔を盛大にしかめ、足元をふらつかせた。
その瞬間臨也に無理に立っている理由はなくなったのか、ぺたんと座り込む。

「…てめぇ右足怪我してんのか」
「は…、何で気づくかなぁ。っていうかだったら何だよ。この機会にトドメでもさそうっていうの」
「……」

静雄はまた黙って臨也の顔を見た。それから空を振り仰ぐ。
生い茂る木の合間から見事な秋晴れがのぞいていた。
そうしてまた臨也に視線を戻すと、静雄は踵を返した。
そしてすぐ側にある木の根元にリュックを下ろすと、自分もそれを背に腰を下ろした。

「は?ちょっとなにしてんのシズちゃん」
「やめだ」

静雄は頭の後ろで手を組んで、目をとじた。
「前にテレビで、こーゆー時は動かないのがいいって言ってたからな。てめぇが動けないなら、無理して移動する必要もねえ」
「はぁ?」
臨也は心底馬鹿にしきった声でわらった。
「ちょっと、まさか俺のこと心配なんてしてるんじゃないだろうね。やめてよねそういうの、気持ち悪い」
「ありえねぇ勘違いすんなうぜぇ」
ぴしゃりといって『俺は寝た』と全身でアピールする静雄を、臨也は忌々しくにらみつけた。

誰にでも優しい化け物は静かに体力を温存することに決めたらしい。臨也のいうコトはもうモスキート音ほども気にしていない。
(ほんと忌々しいなぁ…、何様だよ)
こいつのこういうところが、本当に、我慢がならないほど嫌いだ。
『誰にでも優しい』の誰にでものところに、臨也をあっさりと放り込んでしまう。
この一年と半年、どれだけ手間隙をかけてお前がおれの下だと教えても、静雄はこちらを同等以下としかみない駄犬だった。

臨也はため息をついて静雄から視線を外し、手元にある携帯たちを弄る。
3つあるうちのどれもこれも液晶が破損していたり、圏外だったりとまるで使えない。破損して完全に死んでいるのを鞄に放り込んで、圏外になっている携帯のマナーモードを解除した。
そこまですると、ふいに足の怪我が鋭く痛んで、顔をしかめる。怪我をしているとわかった時にちょっと確認したが、折れているのかいないのか、可能性は半々というところだ。捻挫は確実である。
臨也は近くにあった枝を幾つか物色して、比較的真っ直ぐで丈夫なものを選び出すと、鞄の肩掛け紐をナイフで切り取った。枝を添え木に、肩掛け紐で固定する。
それでも痛みが引くわけではない。

先ほどからじくじくと膿むような熱が皮膚の下で脈動している。
考えが上手くまとまらない。正直ただ座っているだけでも疲れる。
臨也は観念して、無事な足で立ち上がると、ひょこひょこと歩いて、静雄とは真逆にある木の根元に腰を据えた。もたれかかると、木のひんやりとした、けれど鉄には決してない丸いぬくもりを感じて目を閉じる。

(蟲が出たらいやだなぁ)

臨也は努めて足の痛みを頭の中から追い払った。
そのために、いろんなことを考える。例えば救助はどういう状態で進行しているか、ということだ。
幸い臨也も静雄も大勢が見ている前で、災難にあった。(というか合わされた。)なので救助隊にすぐに連絡がいったはずである。ただ、単純に転がり落ちただけだから場所の推察はそこまでは難しくないはずだ。
問題は空を覆う広葉樹である。ヘリコプターが出動しても、多分臨也と静雄は見えないだろう。ということは歩いて捜索にくるだろうから、ひょっとしたら時間がかかるかもしれない。
学校の教師達は、いったい警察になんと説明したのだろう。特にあのガードレール。いくらもろくなっていたとしても、高校生がなぐってあんなふうに突き破れるはずがない。
(ニュースになっちゃったりして…)
勿論、初めのニュースタイトルは『高校生が遠足中に山で遭難!』。それがガードレールを端に、静雄の異能ぶりに世間の注目が集まるのだ。
『スーパー高校生!脅威の身体能力』『進化した人類』
まあ初めはもてはやされるだろう。しかし平穏を愛する彼はきっと報道陣のしつこい質問に耐え切れなくて、格好のバッシング材料を与える事になる。バッシングがはじまれば、それまでもてはやした周囲が手のひらを返して静雄やその家族を爪弾きにするだろう。
(それは面白いかもしれない)
彼を化け物と罵る人間がふえれば、静雄は嫌でも人間に受け入れられない事を悟るだろう。社会にもみくちゃにされて、やがて世間もあきたころ、ひっそりと生きようとする静雄にはどこにも居場所がなくなるわけだ。
その末路は、悪い気がしない。
けれど、その想像は臨也の中に『決してありえないもの』というイメージが払拭できないでいた。心のどこかが、そうならないに違いないと思っている。

なぜだ?

臨也は自分に問いかけて、返ってきた答えにむっとした。
――相手が平和島静雄だからだ。
誰もが、静雄を恐れ遠巻きにする、その視線の中にわずかな羨望を持っている。そして静雄は、それに見事答えられるだけの役者だった。
折れず、挫けず、曲がらない。
強さの代名詞のような男。
いくらバッシングを受けようが、居場所を用意されなかろうが、肩をすぼめて生きるような奴ではない。本人が、自認しているかはどうかとして。

――それに。
(その想像の中に、俺がいない)
拭いようのない強烈な違和感を感じて、臨也は苦しげに息をついた――。

「おい」

はっと目を開くと、真正面の木の根で眠っていたはずの静雄が、こっちをみていた。眉根を寄せて難しい顔をしている。
臨也はいつの間にか自分が眠っていたのに気がついて、そっと背筋を寒くした。
はっとして見上げた空はいつの間にか真っ暗だ。一体どれくらい正体をなくしていたのだろう。
こんなところで気を抜くなんてありえない。








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