「あなたは、…兄が毛虫のように嫌うのもわかります。自分の欲のためにしか動く事ができないんですね」
「毛虫はひどいな。でもまあ、間違ってはないかな。俺は愛する君たちのことを知るためならなんでもできると思うから」

いい大人の口からでる言葉とは到底思えなかったが、臨也はなんの抵抗も感じない様子で小さく笑った。
「それじゃあ、どうかがんばってくれる事を期待してるよ。じたばたしてくれないと、せっかくのお祭りが台無しだもの」
そしてそのまま玄関に進もうとするのを、幽の声がとめた。

「折原さん」

「なあに?」

振り返った臨也は、少しだけ息を呑んだ。
薄暗い室内で、わずかに俯いた幽の顔は翳っている。それなのにそのなかで目だけが、異様に輝いて見えた。表情はまるで変わらない。だが、何かが確実に違う。

――それはいつか、太陽の中にたっていた静雄を思い起こさせた。

自然、臨也の口元に笑みが浮かび始める。
目を瞠って、臨也は声に出して笑った。
「なんだ…なんだ!ふふ、そんな顔もできるんじゃない」
心底嬉しそうにいう臨也を、幽はだまってみつめていた。
「…情報をうってください」
「だめだよ。せっかく面白くなりそうなのに。簡単に教えちゃもったいない」
「ですが」
幽は真っ直ぐといって放った。

「俺は兄貴に、助けを求める気はありませんよ」
「は…」

臨也は目を瞬いた。幽は無表情のまま、淡々と、淡々と、言葉をつむぐ。
「貴方は俺が兄貴に泣きついて、兄貴をひきずり出したいようですが、それだけはありえません。どれだけ追い詰められても、彼女が芸能人生を断たれようとも、牢屋に入れられようとも、俺は兄貴に助けて欲しいと連絡をするつもりはない」
「……それは随分、薄情な弟だね?」
臨也は笑顔をはりつけたまま、囁いた。
「君のお兄さんはどちらかというと、頼られたり縋られたり力を求められるのが好きだったと思うけど」
幽はわずかに目を伏せた。それは反論を取り出すというよりかは、どこか深い場所へと一思いに沈み、痛ましいものを慰撫しているように見える。
やがて真っ黒な目は、再び臨也をみつめた。

「兄は変わりました」

幽は言葉を詰まらせることなく、事実だけを口にする。
「確かに相変わらずお人よしで優しくて、不器用で強い。でも、強いだけではなくなりました。――兄は、弱くなりました」
臨也の顔から、笑顔が剥がれ落ちる。
幽はいった。
「兄は、負けることを知ったんです」
「は…っ、あの化け物が?一体いつのまにどんな怪物と戦ったって言うん…」
「時間に」
幽の言葉は、突き放すように鋭い。

「時間が兄を苛んだ」

臨也は声を奪われた。
幽はそんな臨也を見て、少しだけ間を置いた。その間に彼が何を考えたのか、臨也にはわからない。
平和島兄弟のどんな些細な情報をも知っている臨也が、ひとつだけ知らないことがある。それが彼らの心の内側だった。
「兄には俺や、家族や、友人…岸谷さんや門田さんたちがいます。それでも、この30年、兄の隣に寄り添う人はいませんでした。母にとっての父、岸谷さんにとってのライダースーツの人、門田さんにとってのワゴン仲間のような、そういう人だけが兄の側にいなかった」
幾度も楽しそうに、遠いもののように彼らの話をする静雄を見てきたのだろう。人を観察し、模倣してきた幽だからこそ、口調は揺らがないほど断定的だった。

「誰の一番でもなかったことが、兄には寂しく、寂しさは心を弱らせました。長い時間かけて、少しずつ、少しずつ」

俺が兄貴にしてあげられることは、とても少ないんです。

幽は悔恨をちらとも見せない声で言う。
「それが唯一、兄と言う力を借りない事なんです。兄は自分に対して疲れ果てている」
臨也は声もなく、幽の吸い込まれそうな目をみつめた。
「折原さん」
幽の白い歯がちらとのぞいた。
「貴方の中にいる兄は、とうのいつかに死んでいるんですよ」
つい、と足が板張りの床の上を、滑る。
瞬きをするうちに、臨也は幽の目と鼻の先にいる。
幽が身を引こうとした瞬間、ポケットから繰り出したナイフが照明の明かりを受け止めて鋭く光った。
風が皮膚を裂く音がした。
幽の首筋をかすめたナイフが、空気を凍らせる。
幽は横目でそれを確認したが、もう何か行動を起そうとはしなかった。
臨也は、何もかもが死に絶えたような無表情だ。
ただ、わずかに裂かれた幽の皮膚から、赤い血液がこぼれ出るのを、じっと目で追った。
幽はそんな臨也を何も言わずみつめていたけれど、ふいに自分のポケットを探ると、4つに折りたたまれた小さな紙を取り出した。

「兄の、住所と電話番号がかいてあります」

ぴくん、と臨也の肩がわずかにはねた。
躊躇うような鈍さで、臨也はその紙片に視線を移す。
水の中に沈むような、沈黙があった。
やがて小さく「なぜ」ととう声に、幽は目を伏せる。
「…あなたなら、これくらいの情報はとうに調べがついているかもしれませんが。今日、ここに貴方が来ると決まった時から…ずっと考えていました。兄を大事に思うならば、渡すべきなのではないかと」
臨也にはまるでわからない。疲れ果てたといった口で、兄のもとに長年の宿敵を送り出そうと言うのか。
臨也は口をつぐんで、じっと幽を見た。
幽がどこか悔しそうに、あるいは縋るように、臨也に囁いた。

「…これを使うなら、どうか一言目を間違わないでください。兄はきっと、それで全てを決めるはずだから」

紙片は薄明かりの中、淡く光って見えた。
音が、静止した。その瞬間、世界は灯台のようにぽつりと浮かんだ紙片と、臨也の2人だけになってしまった。
臨也は暫くそれをみつめていたが、やがてのろのろと自分の手をポケットにつっこんだ。

「必要ない」

低くしゃがれた老婆のような声だった。
まるで、一息に押し寄せた何かが臨也を押し潰そうとしているようだ。

「いらない」

音もなく、臨也はわずかに後ずさった。
ほのかな明かりの中、玄関へと続く通路は明かりがなく、ぽっかりと闇が口を開けている。
臨也はやがてその中に消えてしまい、幽はそれを黙って見送った。



***



山の葉は夏の厳しい日差しに焼かれ、その色を深くしていた。
周りの山々を満遍なく覆う葉は、どれも若葉から老葉へと変わりつつある。
静雄は丁度、徒歩とバスで30分のところにある隣家に来ていた。村里に降りるのもほぼ4ヶ月ぶりで、前回はたしか4月の頭だったように思う。
静雄の住む家がひどい山奥なせいで、何ヶ月かに一度静雄が村に降りて、肩代わりをしてくれている隣家にまとめて水道光熱費を渡す手はずになっているのだ。
叔父のころからの慣習で、手間をかける分わずかに割高だった。いたしかたない。
「はい、今回もきっちりいただきました」
にこにこと人のよさそうな女性に、静雄は「お世話になります」と頭を下げた。
その髪は随分伸びていて、金色と茶色のプリンになりつつある。
「いいえ、いいのよぉ。助け合いだものね、こういうのは」
「助かります」
無愛想な静雄の返事に、女性はますます笑みを深めた。
彼女はこの家の奥方である。代々村長をつとめたりする名主の家で、この村では一番権力を持っているといっていい家だった。
ふと、女性が何か気付いた顔になる。

「あらあなた。それ叔父さんのお着物じゃない?」

めざとい。静雄は頷いた。
「蔵に眠っているのをみつけて」
「そうよねぇ、何度かきていらっしゃるのを拝見した覚えがあるわ。木綿の、上品な柄よね」
お似合いだわ、と微笑んでくれるが、多分わずかばかり裄が足りていないことは気づかれているだろう。叔父も普通より身の丈が大きかったらしいが、静雄の背丈がそれをはるかに上回った結果である。
おはしょりも、なんとか様にはなっているが、十分な丈があるとはいえない。
だらしない着流し姿と、のびきった金髪の若者。
放蕩者と思われても仕方のない身なりだった。せめて髪をまとめてくればよかったと、きちりと着物を着込んだ女性を前に思う。

「どう?叔父さんちでの生活はなんとかやれてるの?あそこ、何もないから不便でしょう。ご飯とかもきちんと食べてるの」
「なんとか。山菜とったり川で魚釣ったり、庭に畑もあるんで。米は今日、また買って帰るつもりです」
「でもあなたまだ若いんだから、お肉とか食べたいでしょう?だめよぉ、たんぱく質と油とらなきゃ」
「…っす」
実際、雌鳥が卵を毎日恵んでくれるし蔵の地下に干し肉が貯蔵されているが、それ以外の調味料や米はこうして村里に下りたとき以外は入手できない。動物はときどき気配を感じるが、しとめたところで捌く自信がなかった。
ふいに、女性がぽんと手を打つ。
「そうだ、今日うちでご飯食べて入ったらどう?このまえしとめた猪がね、ちょうど食べごろなのよ」
「……いや、猪ですか」
「そう。お嫌い?」
静雄は目を伏せた。ほぼ初対面といっても過言ではない静雄を、食事に招待するなど都会では考えられない気安さだ。
そのときふと、風にまぎれて囃子の音が聞こえてきて、静雄は目を瞬かせた。

「これ…」
「ああ、お囃子?もうすぐお祭りなのよ。誰かが練習しているのね」

夏祭りが、もう間近に迫っていると言う。
盆と重なるように行われる祭りは、村中総出のお祭り騒ぎになるらしい。囃子に盆踊り、神社の境内では有志の出店もでるという。こんな片田舎では数少ない娯楽だろう。
「お暇なら貴方も山から下りてらっしゃいな」
女性がいいことを思いついた顔ですすめるのに、静雄はうろたえた。そんな人の多いところなど。
「いや、俺は…」
「馬鹿なこと言うな!そんなぁ他所モン呼んでどうするっ」
腹の底に響くような怒鳴り声が聞こえて、奥さんと静雄は慌てて座敷の方を振り向いた。
奥さんが驚いたように目をぱちくりする。
「あなた」
「俺はあの家のもんをここの村人とは認めんからな、胡散臭い都会の他所モンが」
男は、上から下まで、静雄をねめつけた。
「陰気なあの男によう似とる。祝い事にはむかん、けちがつくわ」
「そんなこと、いいじゃありませんか。せっかくの楽しいお祭りですし」
「おまえは神事のことをなんと心得とる。余計な口出しをするな!」
角刈りの頭はそう白髪で、いかにも感の強い目をしていた。彼がこの村の村長をつとめている。
奥さんはやれやれとでも言いたげな顔で首を振っている。
「私だってこの村にとついで来たよそ者だっていうのに…」
「お前はうちの嫁だろうが。お前はいいんだ」
もう50はとっくに越えたようにみえるのに、未だに嫁扱いである。多分この奥さん、『よそ者』扱いには随分苦労したんだろうな、と静雄は思った。
腕を組んで仁王立ちする男は「とっとと帰れこのヒヨコ頭めが」と言わんばかりに睨みつけてくる。不思議と腹は立たなかった。
むしろ静雄にとっては、この疎外感のほうが安心できる。奥さんの気遣いのほうが有難くないといえばありがたくない。
この集落の仲間になる気など、毛頭ないからだ。
村と言う限られた人間関係は、それだけ蜜で強固だ。その分小さなボールのように他をはじき出し、かたくなに拒絶する。おじいちゃんと孫が手を繋ぐような、優しく固い関係の拒絶が、静雄は嫌いではない。

「俺は、叔父ににていますか」

問われて、男はすこし面食らった顔をした。けれど、それを恥じるような怒り顔で睨みつけてくる。
「ああ、よう似とる。その地に足がついとらん、得体の知れんところが特にな。何を考えてるかわからない森の木みたいな男だった」
「そうですか」
奥さんは「故人をそんなふうに言うなんて」と目を厳しくしたが、静雄はわずかに目を細めただけだった。
「お世話になりました。またよろしくお願いします」
「あらあら、ごめんなさいねぇ、うちの人が」
「お前は謝るな!」
玄関から出ようとする静雄を奥さんはつっかけをひっかけて追ってこようとする。すかさず家主の叱咤が飛んだが、もう慣れっこなのか奥さんは気にする様子もない。
結局奥さんに見送られながら、静雄は村のメインストリートに続く道を歩いた。その途中、名主の家にむかう村人とすれ違った。背後からあの村長の歓迎する声が聞こえる。
その声は見せ掛けのものではなく、深い親しみが込められていた。

メインストリートといっても、整備すらされていない土の道で車が通れる道には両脇にちらちらと店がある。
その中の『百貨店』と看板を出している錆びた店に、静雄は足を踏み入れた。その名の通り、食品から農作業のための衣類、子供の玩具までよろず揃っている。
静雄は米と、牛乳を買うつもりだった。
牛乳は里村に降りるごとの贅沢である。
とはいえそろそろ暑くなってきたから、行きかえりに時間がかかることを考えるとやめたほうがいいかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと目の端にある文字が飛び込んできた。
静雄は誘われるまま、新聞を手に取る。

『某プロダクション、聖辺ルリ落しいれ認める』

「……んだこりゃ」

聖辺ルリとは、たしか弟と付き合っている彼女ではなかっただろうか。
一面にのっている彼女の青白い顔には、見覚えがある。
目を通した記事の内容は、3月の麻薬組織の一斉検挙から始まる、某プロダクションの聖辺ルリへの謂れのない中傷から始まったと言う。
なんでもやり方が非常に悪質で、彼女が組織と連絡を取っているという噂をネットで流し、あげくでっちあげた証拠を警察とマスコミに流したと言うのだ。その証拠というのが非常に精巧で、一時はひどい中傷に晒されたらしい。
だが捜査によりそれらは偽物であることが証明され、またそのプロダクションの暴力団との黒いつながりや悪質な嫌がらせなどもつぎつぎと明るみに出たために、今回聖辺ルリの疑惑は疑いようもなく晴れたのだと言う。
「あいつ…そんなこと一言も」
まず間違いなく弟が絡んでいただろうこの件について、静雄は何も聞いていなかった。
先日連絡をしてきたときも、特に変わったことはないといっていたのに。やはり電話越しだと隠し事をされても気づきにくいのだろう。
静雄は店主の視線に気がついて、あわてて新聞と米50kg、そして牛乳を1本だけ買った。

「もてるのかい、兄ちゃん」
「ああ、心配いらねぇ」

店主が心配する中、静雄は持ってきたリュックに米袋を5つ放り込んだ。
担いだ途端、リュックは着物を巻き込んで肩に食い込んだが、へでもなかった。
なんでもないように去っていく静雄を、店主は感心したように見送る。静雄は手に持った新聞をちらとみた。
「…余計なもん買っちまったな」
あまり無駄遣いをするつもりはないのだが、ああまで真剣に読んでしまった後だと買わざるを得ない。

静雄は現在、叔父の金で暮らしている。
両親に願い出て、静雄はきっちりと叔父の遺産を財産分与として分けてもらうことにした。二度と、これ以上の金を貰うことはしないと固く誓って。
叔父の金で生活すること自体がもはや我慢ならないほど情けないのに、これ以上金をせびる気はさすがに起きない。

とはいえ、贅沢さえしなければ一生食うには困らないほどはある。
だから静雄は、この数月に一度の買い物に必要最低限のしなだけを選んでいく。
米、塩、砂糖、みりん、トイレットペーパー、ティッシュ。
それらを全てリュックにつめるのだから、恐ろしいほどの堆積になった。
村を行く人は、皆静雄の背中を異様なものを見る目でみている。
当然といえば当然だ。風船のように膨らんだリュックは静雄身の丈ほどにもある。

静雄はそれらを担いで、ノシノシと村の外れまで歩いていくと、そこから出発する定期バスにのった。
一日に2本が通常運行である。
荷物を降ろし、バスに揺られる。人は少ない。静雄はぼんやりと外を眺めた。
その手には、先ほどの新聞が握られている。
記事には聖辺ルリを羽島幽平が献身的に支え、どんな中傷をうけても彼女の支えになり続けたという美談が載っていた。

「あいつ…大変だったんだろうな」

静雄はぼんやりと呟いた。
なんで相談してくれなかったんだ、という思いもないとはいわない。だが、相談されてもきっと静雄には何も出来なかっただろうことは簡単に予想がついた。

(だって俺は、あいつとこんなに離れてる)

だが、たとえ物理的な距離がなかったとしても、静雄ができたことなどあるのだろうか。池袋に住んでいたころ、静雄が幽の助けになれたことなど数えるほどもなかった。当然だ。多くの人に夢を与える、きらびやかな世界。静雄が手の出せない場所。
「そこは、お前の場所なんだな」
幽はそこに聖辺ルリとともにたっている。
ふいに、この半年襲うことのなかった胸の痛みを感じて、静雄は小さく眉をしかめた。
染みるような、しんしんと奥に降り積もるような、たちの悪い痛み。
その名前は寂しさと言う。
静雄はきつく目を閉じて、その痛みをやり過ごそうとする。池袋にいたころは、こんなことばかりしていた。久しぶりだからかあまり上手くはいかないようだ。

―――臨也。

ふいにその名前を聞いた気がして、静雄は目を開いた。
もちろんそこにはその名前を呼ぶ人はいない。声は新羅だった。恐らく、去り際に新羅がいったことが頭に残っているのだ。

――臨也が、迎えに来るなど。

静雄は目元を指で覆う。
もたれかかったガラス窓が、息に触れてわずかに曇った。

ありえるはずがないのだ。

呟く声は夏のじわりとした空気に、溶ける。









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