――高校を卒業してすこしして、静雄はバーテンダーのバイトをみつけた。

前回のバイトは首になっていた。店内で不良との大立ち回りをやらかしたのだから当然である。あのクソノミ蟲の仕業だ。弟はそんな静雄のためにバーテン服だけを10着、送ってくれた。

バーテンダーの仕事は寡黙な静雄にはなれないことも多かったが、酒をいくつも組み合わせて宝石みたいなカクテルを作りだすのは純粋におもしろかった。
雇い主は静雄が多少の粗相をやらかしても目を瞑ってくれる。穏やかに微笑んで間違いを指摘してくれる、懐の深い人物だ。
弟のためにも、雇い主のためにも、そして自分のためにも、この仕事をがんばろうと静雄は心に決めていた。

静雄は休日に本屋にたちよって、『バーテンダーになるため本』を購入した。
仕事帰りだと本屋はしまっているし、だからといって仕事前に買い、職場にもっていくのは恥ずかしい。

「あれーぇ?シズちゃん、おべんきょが苦手な君が本屋さんに何のようなの?」

背後から声をかけられたのは、本屋から出て角を曲がった時だった。
脇に抱えた本屋の包みは、隠しようもないほど大きい。
静雄は舌打ちをして、振り返る。
「臨也ァ…」
「ふふ、久しぶりだねぇ?この前仕事やめたとき以来だから。2ヶ月ぶりくらいかな」
臨也は坂の上に立ち、見下すように笑っている。
「しらねぇよ。失せろ、いまてめぇに構ってやれる気分じゃねぇんだ」
「俺だって別に会いたくてシズちゃんみつけたわけじゃないし」
シャツでも汗ばむ陽気なのに、真っ黒なコートのポケットに手を突っ込んで、涼しい顔の臨也は近づいてくる。
静雄は問答無用で足を一振りした。
「わ!ちょっと何?危ないんだけど」
「知るか。よるんじゃねぇ。臭いが移る」
「はぁ?ナニソレやめてよね。俺が臭いみたいだろ」
「くせぇんだよ実際」
折原臨也自身の内面というか、そう。魂が腐った匂いはきっとこんなかんじだ。

静雄は臨也が嫌いだった。

はじめて出会ったときは『気に食わない』。今は『どっか知らない場所でのたれ死んで欲しい』に格下げである。
気に入らなかったのは多分、この男が自分と同じ『普通』からかけ離れた醜悪さを秘めているからだろう。その醜悪さは、この数年で消えるどころかますます強くなっている。
人のことを化け物化け物と罵るくせに、静雄が怪力を振るう機会をつくるのも、またこの男だった。
正直なところ、学校を卒業してまで関りあいになりたい男ではない。
「俺はてめぇと違って忙しいんだよ」
静雄は吐き捨てて、踵を返そうとした。

その瞬間だ。

背中に衝撃が走り、静雄はバランスを崩した。そこが緩やかな下り坂だった事が災いした。
本屋の包みが地面に落ち、中身が滑り出る。
静雄の胸に臨也のけりが決まり、静雄はしたたか壁に背中を打ちつけた。
「……っ」
「なにこれ。『バーテンダーになるための本』?随分安直なタイトルだねぇ」
はっとして顔を上げれば、臨也が本を拾い上げていた。
「てめぇ、返せ…このっ」
捕まえようと伸ばした手は、猫のようにやわらかくかわされてしまう。
臨也はいやらしい笑みを浮かべて、本をみていた。
「ふうん?そーいえばシズちゃんのあたらしいバイトってバーテンだっけ?なに、一人前にやる気になってんだ」
「るせぇな…っ」
静雄はなぜか恥ずかしいような気持ちになって、唇を噛んだ。そうすると臨也が、ますますチシャ猫のような笑みを深める。
その瞬間、静雄の背中に何かいいようのない寒気が走った。

「シズちゃんはさぁ、何いい気になってるの?」

臨也は坂のすこし上に立っている。ただでさえ黒い肢体が背後から日の光を受けて、影のようだった。
「化け物のくせに『何かをがんばろう』とか『これやってみたい』とか人間みたいに前向きな気持ちになったりさぁ馬鹿みたいだよ。そういうのやめろよ。気持ち悪い」
ぴり、と静雄の指先が痺れる。

これが、臨也の力なのだ。
選ぶ言葉の一つ一つ、行動の一つ一つ、計略のすべてが、的確に相手の心に打撃を与える。

「どうせ周りに迷惑かけて終わっちゃうんだからさ、もっと消極的に、何も見ないようにして極力周りに迷惑かけずに生きなよ」
「……やめねぇ」
「は?」

静雄は挑むように、ゆっくりと息をして臨也をみつめた。
「不器用だから迷惑かけてるけど、マスターは気にしないって言ってくれる。だから俺は、もう喧嘩売られてもかわねえ。我慢する。嫌な客も殴りとばさねぇ。細かいレシピもいらいらしねぇで覚える」
静雄にとって今回のバイトは、もしかしたら自分を少しでも愛してやれるかもしれない、そんな可能性を秘めた機会だった。

「だから、今回は絶対やめねぇ」
「………」

臨也はぽかんとしたようだった。
静雄は小さく舌を打つと、臨也に近づいて彼の手から本をひったくった。
臨也が動かないのをいいことに、さっさとこの場を後にしようと、足を踏み出した瞬間だった。

再び背中に衝撃が走る。

「うぉ…っ!?」
高い位置からの跳びげり。身のこなしの軽い臨也だからこその高さで、静雄はバランスを崩しながらも、振り返りざま腕を払う。
臨也はすぐ側に立っていた。
こいつマジいい加減にしろよ…と静雄が睨む先で、俯いた臨也が何かを呟いた。

「ふざけんな…」
「あ…?」
「ちょっと優しくされたくらいで恩感じちゃってさあ。そんなに普通が欲しいの。無理なんだっていい加減気づけよバカ」

臨也が顔を上げる。逆光の影の中、赤い目がぎらぎらと輝いて見えた。

「端から別の場所に立ってるってなんで気づけないわけ?いくら君が真似事したって、君はどこまでも異常でしかないんだってそろそろ認めれば?」
「んだと…っ」
「普通でいたけりゃ、普通に生まれて来いよ。化け物」

誰も好き好んで、こんな体質になったわけじゃない。ここまで頑丈になってしまったのは、この男が三年にわたってこの体を痛めつけたおかげだ。
静雄は唸り声を上げたが、臨也の顔をみて言葉を奪われた。
臨也はなぜか、ひどく苦しそうな顔で、胸元を押えていた。

「ねえシズちゃん」
言葉を胸に捩じりこむように、ゆっくりと囁かれる。
「いくら欲しがったって、君の隣に『ただの人間』が寄れたためしなんてないじゃないか」

それは明らかな蔑みの言葉のはずなのに、何時もとは何かが違った。
まるで静雄が悪い事をして、責められているようなそんな響きがある。
「おい…?」
静雄が呼びかけた瞬間、臨也は身を引いた。俯いた顔は、笑った口元だけしか見えない。
「…そんなに離れがたいなら、俺が証明してあげるよ」
次に顔を上げたときには、ムカつくぐらい見下した笑み。
何たくらんでんだ、と叫ぶより先に、臨也は素早く踵を返して立ち去った。角を曲がった背中を慌てて追うが、もう影も形も見当たらなかった。

――その一月後。
静雄は多くの罪にとわれ、警官隊に取り押さえられるという事件を起した。それらの罪はまるで身に覚えがなかったが、心当たりならひとつしかない。
折原臨也が、パトカーの影からこちらを見ている。
バーテン服の静雄が獣のように取り押さえられ、怒りに咆哮するさまをじっとみつめている。
静雄の目が臨也一人を捕らえ、臨也の名前を吠えるのも全て確認して、――奴は笑った。
毒の花が咲くように、鮮やかに。

「いざやぁぁぁぁぁぁっ」

静雄が臨也だけを見つめる中、その背中は嘲笑うように闇に消え、そして池袋から消えた。






やつが新宿に根城を移したのはその夜のことで、騒ぎが収まるまでちらとも池袋にはあらわれなかった。
静雄はその間警察のお世話になったり釈放されたり、バーテンダーを首になったり、新しい職を探して歩き回ったりと、忙しない時間をすごした。本は棄ててしまった。けれど弟のくれた制服だけは棄てられずに仕事着と化した。
それからというもの、静雄は臨也の姿を見かけるだけで理性のリミットが外れるし、ふと思い立った時に臨也を殺しておいた方がいいかなと新宿の根城まで出かけていくこともあった。

10年、そんなことばかりしてきた。

なぜあの男は、自分の平穏な時間を邪魔するのか。
化け物と忌み嫌い、謗りながら、静雄を痛めつけてより『化け物』に仕立て上げていくのか。
考えたことがないわけではない。
いくら考えても答えなどたどり着けようはずもなかったが、ただ、静雄にもひとつだけわかることがある。
それは臨也が、いくら叩き潰しても必ず静雄の前に現れるということだ。まるでお前の暴力など、自分にとっては口ほどにもないのだというように、畏怖する事をよしとしない。
静雄は、臨也が静雄の『暴力』に屈服したところをみたことがなかった。
挑み、蔑み、あえて踏みにじる。
臨也は静雄の『暴力』を屈服させたいのだ。自分で静雄の暴力に止めを刺したい。自分のほうがより優れていると、証明したい。
そのためにあの男は、普通というものを自ら棄てたのだろう。

――馬鹿だ、と思う。

放っておけば人のなかに交じり、誰かの隣により添えたかもしれないその権利を棄てて、静雄の力を追ったのだ。
静雄と同じように、この異常な力のために道を誤った男。
それが折原臨也だった。
すべては推測に過ぎない。
けれど、臨也が静雄を追い、執拗に屈服させようとした故は、静雄自身にではなくこの異能にある。
その事実は揺らぎようもないと、静雄は思う。
そんな男が目の前に現れたとして、――また戦争になるのだろうか。
静雄の胸に暗雲がたちこめた。そんなものはもうごめんなのだ。暴力に振り回されていた自分など、もう嫌なのである。

この場所で、静かに息絶えた叔父のように、――ただ静かに生きていたい。

それだけが今の静雄の望みだった。



***



バスは静雄の家のある山のふもとに停まった。
静雄は大量の荷物をもって、240円を運転手に渡す。
降りた途端、ふと頭上の雲が早く流れた気がして空を仰ぐ。
空は不吉な灰色に染まっていた。

「…さっきまで晴れてたのに」

山の天気は変わりやすい。
この分だとじき、雨が落ちてくるだろう。
夕立にはまだ時間が早い。本格的な雨がくるように思われた。
静雄は荷物を抱えると山道を登り始めた。
なだらかにつづく階段をひたすら登り続ける。ほとんど手入れのされてない階段は丸太を並べただけのもので、ところどころが朽ちている。

10分も階段を登っただろうか。静雄の目の前につり橋が見え始めた。
渓流の音が聞こえ始め、静雄はぐっと気を引き締める。
実を言うとあれから静雄は、橋の補強を怠っていた。
もちろん以前踏み抜いた場所は補修したが、全体的に古びた橋は一度、板をすべて張り替える作業が必要だった。
まあ、誰が訪ねてくるのでもないし。という思いがどこかにある。
だが新羅たちが来たいといっていたから、それまでには直してしまわなければなるまい。
そう思いながら、日々の雑事に追われて手をつけないでいる。

静雄は慎重につり橋の上を渡っていく。
もう何度も渡っているために、どこの板は踏んでも大丈夫か、どの辺りは踏んだらダメなのか、なんとなくわかるようになっていた。多分他の人間には決してわからないだろう。初見で無事に渡れるのは、軽業師か、それくらい身のこなしの軽い人間くらいだ。
静雄自身も長身だが、荷物の重さが相当こたえているようだ。踏むたびにぎしぎしと不吉な音を立てている。

(…ほんと、いい加減なおさねぇとな)

蔵にどれほど補強用の木材が残っていたか考えながら、静雄はつり橋を渡りきった。
家の門にたどり着くと、いよいよ天候は怪しさを増していた。
強い風に煽られて、庭の緑が波打ち、窓ガラスが悲鳴をあげている。

――嵐が来るかもしれない。

「洗濯もんとりこんでねぇな」
思い出して、静雄は玄関を開け放つ。
飛び出してくるのは夢と月島だ。
千切れんばかりに尻尾を振る夢と、足元にほおずりをしてくる月島に苦笑しながら、「わりい、先に洗濯物な」と荷物を玄関先に降ろした。
寝間の縁側から庭にでると、洗濯物が大風にはためいている。
物干し竿は木を削りだして作られた手製で、丈夫そうなのだが、如何せん使い込まれすぎていた。風にきしむ様は、見ていて心臓に悪い。テンションの上がった夢と一緒に、庭にとび出る。そのあたりを走り回る夢に「中はいれ」と声をかけたが、興奮している夢の耳には入らない。

干してあったシーツと、下着、タオルを取り込んでいると、頬につめたい雫があたった。
「げ…っ」
息を詰めて、静雄は慌てて縁側に洗濯物を放り込んだ。
ひとつぶ、ふたつぶ、――バケツをひっくり返したような大雨。
「あ、ぶねぇ…」
とりこんだ洗濯物と一緒に、縁側からそれを見上げた静雄は、庭から走りこんでくる夢を見て、ぎょっとした。
まよわず洗濯物を抱えあげ、寝間の奥に放る。
その瞬間、飛びはいってきた夢が、銜えていた何かを静雄の足元に放り投げると、思い切り体を震わせた。
雨雫がとびちり、縁側に小さな水溜りが出来る。
「おまえ…こら、夢!」
とっさに裾を捲り上げて難を逃れた静雄は、ぬれた足をみて眉をつりあげた。けれど、「どうしたの?」といわんばかりのキラキラした瞳にみつめられ、肩を落とす。
しゃがみこめば、尻尾を扇風機のようにふった夢がじゃれ付いてきて、額に鼻先をこすりつけてくる。
そうなると、もう怒れない。なんというダメ主人か。


苦笑しながら、なだめるように夢をなでていた静雄は、月島の小さな鳴き声に振り向いた。月島は夢のテンションにドン引きして、どこかに避難していたらしい。ある程度おさまったとみて近づいてきたのだろう。しきりに静雄の足元に落ちていた、小さなものの臭いをかいでいる。
夢が庭で拾ってきて、放り投げたものだ。
「なんだ?」
ひと目見て、静雄はぎょっとした。

虫だ。

その事実より、容姿にグロテスクさに驚いた。
けれどそれは茶色く透き通り、生々しさがまるでない。
生き物ではないのだ。正体はすぐに知れた。

「蝉の抜け殻か」

胸をなでおろした。
手を伸ばして拾い上げれば、自分が持ってきたものなのに、夢が臭いをかごうと鼻をつきだしてくる。
あのテンションで持ってきたくせに、蝉の抜け殻には傷一つついていない。たいしたものだ。

薄く軽いそれは、見れば見るほど緻密に出来ていた。
今にも動き出しそうなのに、今にも壊れそうだ。

――その中にはもう、命はない。ただ、名残のようなものが小さな存在感を放っている。
主に棄てられた、空っぽの過去の固まり。

決して珍しいものではないが、小さな頃、弟と2人眺めたきりだ。魅入っていた静雄は、背中に鈴の音を聞いて振り返った。

電話だ。

蝉の抜け殻を箪笥の上にそっと置くと、ばたばたと廊下に向かう。今日は廊下に面した一間、障子を開け放っているが、それもこの大雨だとどうにも薄暗い。
足をならして近づいてくる2匹を器用に避けながら、静雄は電話を取った。

「はい、平和島」
『あ、静雄かい?私私!私だよ!』
「…俺に私と言う知り合いはいません。切るぞ」
『わー、そんな古典的なギャグ…まって切らないで!岸谷です!新羅だよ!』
静雄はため息をついた。
「おまえな、何くだらねぇことしてんだ」
『いや、違うんだ。今のは本気で…うん、それより』
新羅はすこし大きく息をついた。
『考えて、やっぱり君には知らせようと思ってね』
「あ?」
『今日そちらに客人がいくかもしれない』
「……きゃく?」
静雄はその言葉を咀嚼できずに固まったが、次には目を瞠った。
「おま…、来る時は連絡しろっていっただろうがっ」
『いくのは私じゃないよ。セルティでもない』
「はぁ?だれだよ」
新羅は電話口で少しだけ沈黙した。
背中を、そろりと冷たいものがなでる。

『ねえ、静雄。隠居するって言った君に、僕が言った言葉を覚えてるかい?』
「……まさか」

『うん。臨也がいくよ』

静雄の手の中で、受話器がみしりと音を立てる。
「なんで…」
『何故なのかは私も知らない。あいつがそう簡単に自分の考えをしゃべるもんか』
「……」
静雄は沈黙した。
耳に、強い風の音が木霊する。

――臨也が来る。

静雄の暴力を殺しに来る。
平穏にじわじわと絞め殺される前に、自らの優位を示すため。…それ以外なにがかんがえられるだろう。
『静雄、臨也はね』
耳元で、穏やかな新羅の声がする。
そのとき、

―――ガシャンッ!

玄関の扉に、なにか大きなものがぶつかる音がした。
夢と月島と静雄が、一斉に身構え、そちらを見やる。
「な…!?」
玄関扉はすりガラスで出来ていて、嵐の外界をわずかにうつしている。
ぼんやりとした人影が雨の打ちつける扉に映し出されていた。人影はなぜかふらふらとした後、あろうことか取っ手に手をかけた。

「ぁ……っ」
『静雄?』

扉が、雷でも降ったような音を立てて、開かれる。
豪雨とともにたたずむ、真っ黒な人影。

それはまるで、嵐そのもののように、不吉な影の色をしていた。










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