明かりをつけていない玄関は、嵐のために薄暗く、俯いた人影の顔は判別できない。
ぬれた黒いコートを羽織り、フードを頭からかぶっている。垂れた雨粒が玄関の石に、墨汁のような水溜りをぽっかりと作りあげた。
人影がよろめき、扉を掴む。その白い指に、はっと息を呑んだ。

「い…ざや…」

静雄の唇が言葉を結んだ。
聞こえたように人影が顔を上げ、動きをとめる。
まるで夢を見たかのように、呆然とたたずんだ。
足元にいた夢が、はなたれた矢のように男に向かってすっ飛んでいった。
「……!?」
静雄はぎょっとして、思わず受話器をおいた。
あわてて「夢!」とよんだが夢の耳には入らない。家を守る使命に燃えているのだ。
人影のコートの裾ににかぶりつくと、うーうー唸り声をあげて左右にそれを振り回す。
その瞬間、フードが脱げて零れ落ちた黒髪と、夢を見下ろす白い顔が見えた。
ふと顔をあげた、赤い目と、目があう。
「……っ、夢!やめろッ」
夢を蹴り上げられ傷つけられたらたまらない。それとも純粋に夢を止めるためだったか、叫んだ静雄はよくわからなかった。
ただ夢はフードをくわえたまま、「だめなの?」というように静雄を見て、素直にそれをはなした。
静雄は慌てて近づいて、寄ってきた夢を抱き上げる。
臨也が、ゆっくりと顔を上げた。
記憶にあるいつもの笑みはない。唇をひき結んで、じっとこちらをみている。
「…なんでこんなところまで」
臨也の唇が、すこし震えた。悪魔を飼っている口は、むずむずと何かを探す。やがて、

「―――シズちゃん」

名前が、一つだけ、転がり出る。
ため息をつくように、小さい。けれど、まるで体中の力をどっと吐き出したように、臨也の肩から力が抜けた。
蔑むでも、威嚇するでもない。
ただ、その声は静雄の存在を確かめるように耳を掠める。

静雄はなぜか恐ろしくて、半歩、さがった。
着物の裾からくるぶしが覗く。

抱えた夢がふんふん鼻を鳴らして、静雄の首筋に頭をこすり付けた。
なんで、ともう一度つぶやく。
臨也は、少しだけ目を細めた。何も言わない。
バケツをひっくり返したような雨に打たれたのだろう、コートどころかズボンの膝まで色が変わっている。
それどころか、なすったように泥がつき、色が変わっていた。
と、それをみて静雄はふと口をつぐんだ。それからちょっと考えるように目を瞬いた。
確かにすさまじき格好ではあるが、…いささか汚れているというか、よれよれし過ぎてやしないか?
「…おまえ、なんでそんなくたびれてんだ」
臨也はすこし息を止め、それからゆっくりと深いため息をついた。
「…つい今しがた、死ぬ思いをしたからじゃないの」
臨也が口を利いた。
当たり前のことなのに静雄は驚いて口を噤む。
「そこのつり橋…」
「え、ああ」
「補強した方がいいんじゃない。死人が出る前に」
「……」
静雄はすこし黙った。
「…おまえ、もしかして落ちかけたのか」
「腐った板踏み抜いてね。もう少しで増水した川に紐なしバンジーだったよ」
「そう、か…」
答えながら、静雄は眉をしかめた。
なんだろう、何故自分は臨也とまともに会話などしているのだろう。
それに、この違和感――。
ふと気づいて、静雄は目を見開いた。
(こいつと話してんのにいらだたねぇ)
不審げにじっとみつめるのを、臨也は黙ってうけとめた。黙ってだ。暫くして、のろのろと臨也が立ち上がる。
「あのさ」
静雄は思わず身構えた。
けれど、臨也は泥で色の変わったズボンをちょっとひっぱっていった。
「悪いんだけど、ちょっと風呂かしてくれないかな」



***



炊事場にひとつだけある窓は、はめごろしである。
雨避けのひさしは古びて穴が開いている。叩きつける雨風の他に時折大粒の水滴が落ちる音がひときわ耳についた。
静雄はふと顔をあげて、火にかけたままだった鍋をみた。
そろそろだろう。
鍋はあらかじめキャベツとジャガイモ、煮干、干し肉を放り込んである。味は付けないので、味見は必要ない。

水分と煮崩れだけを気にかけてできばえを確かめ、静雄は満足げに鼻を鳴らした。
手早く鍋を火からあげた。つかいこまれて茶色くなりつつある鍋つかみは、薄い鋼でも入れたように固い。両手鍋を器用に片手で支えながら、並べてある大小、二つの陶器の皿にそれぞれお玉で2・3回にわけてもりつける。
焦げグセのついた鍋は、底に新たな焦げをつくりあげていたが、もう諦めるしかない。新しい鍋を買おうと何度も思うのだが、思いながら、多分穴があくまで買い換えることはしないのだろうという予感があった。
ほこほこと、湯気を立てているそれを、土間に面した居間にならべておいた。
冷ますためである。
今しがた使った鍋を、流しでざっと洗う。天日干しされた糸瓜は、粉石けんを何度か含ませてようやく泡立つ。
洗い上げた鍋のなかに、切ったカブを放り込んで、火にかける。

そこまでして、静雄ははっと顔を上げて耳を済ませた。
雨どいをつたう雨の音、すさまじき風の音より近くに、人の気配がある。
廊下の突き当たりに居間があり、そこから土間と風呂場に分かれていた。土間の薄い木の壁の向こうが、風呂場なのだ。
だからこそ、気を紛らわせるためにも静雄は土間で夕飯の支度に取り掛かったのだ。
あの男がなんのつもりなのにせよ、勝手に家の中を歩き回られればすぐにわかるからだ。
その風呂場の扉が、今しがた開く音がした。木をふむゆっくりとした足音。

背後でかたんと、音がした。
菜ばしを持ったまま、鋭く振り返る。
風呂から上がってきた臨也が、居間の障子に手を着いてこちらをみていた。先ほどよりわずか、落ち着いた顔をしていた。ねめつける。
湯で温まったためだろう、血が通った臨也の唇が開く。

「お湯、ありがとう」

―――ばきっ。

菜ばしが、手の中で不吉な音を立てた。
自分の耳を疑った。
驚愕の表情で見上げれば、臨也が不思議そうな顔をした。
嫌な汗をこめかみに感じて、静雄は自然、自分の眉間にシワがよるのを感じる。
「腹でも悪いのか」
真剣に聞いたのだけれど、「なんで?」と心底怪訝な顔をされては答えに詰まる。
「着替えたの?」
臨也は、静雄を上から下まで見つめていった。
先ほどまで木綿の着物を着ていた静雄は、長じゅばんの上から紺色の浴衣を着ていた。
静雄はそっぽを向いた。
「あれは外出用だ」
木綿の着物はあれでも一番袖が長く、料理をするには不向きだ。その点、この浴衣は叔父の浴衣の中でも特に裄が短い。「つんつるてん」に近い状態だった。つまり汚すのに心配も気兼ねもあまりない。
とはいえ、みっともないといえば、みっともない。
体にあっていないことに気づいているだろうに、臨也は何も言わずに目を瞬いた。

「ふうん」

やっぱりどっかおかしいんじゃないか、こいつ。
横目でちら、とその姿を見た静雄は、瞬時にそれを後悔した。
臨也は静雄が貸した黒の浴衣をきていた。
一番固い帯を貸したのに、ぐうの音も出ないほど綺麗にきつけられていた。しゃれにならないほど様になっている。
静雄がきるとつんつるてんになるそれは、臨也には丁度よいらしい。わずかに裄が長いようだが、許容範囲だろう。衿元もこの上なく綺麗だ。
衿ぐりからは、下品でない程度に鎖骨がのぞいていて、湯上りの肌がわずかに色づいているのがわかる。

ちっ、と舌打ちが漏れる。
臨也が怪訝な顔をしたが、無視をした。
「俺の服」
「ぜんぶ洗濯機に放り込んだ」
「……」
全部黒なのだから、色落ちもすまい。洗濯機を汚されたら敵わないから、最初に桶で洗い流しさえしたのだ。
考えて、なぜ俺がそこまでする必要がある、と理性の囁き声を聞いた。
静雄は「しるか」と答えたが、だからといって他の誰にも問うことが出来ない。けれど、いますぐ臨也をたたき出すつもりがないことを知っていた。
それきり、臨也はうんともすんともいわないまま、ただじっと赤い目で静雄をみつめる。

カブの鍋がことことと音を立て始めたのに気づき、静雄は料理に意識を戻した。土間用の草履は静雄にはすこし小さいので、歩くとかかとが浮く。
背中から臨也が襲ってきたら、すぐに応戦できるように全神経をそちらに集中していた。
水底のような、沈黙。
臨也は、まだ静雄を見ているようだった。
カブの煮物に、カブの葉をくわえて調味料を足した。
そのとき、ふと足元に冷気が漂ってきて、首筋があわ立つのを感じる。
居間の隅に、羽織があること。臨也は気がつくだろうか。
夏の盛りを迎えても山の上は涼しい。静雄が襦袢を着ているのはそのせいだった。
きっと湯上りに浴衣一枚では、すぐに湯冷めをするだろう。

「ねえ」

声をかけられて、静雄は身構えて振り返った。ナイフが飛んでくるような気がしたが、臨也はこちらを見てすらいなかった。浴衣一枚の姿で、足元の大小並んだ器を見ている。
「これ、さめてるけどいいの?」
先ほどの、キャベツやジャガイモのごった煮である。
静雄は拍子抜けした顔になったが、はっとしてそれに近づいた。
居間にいる臨也は高い場所にいる。睨みあげた
「…変なことしてねぇだろうな」
「何をするっていうのさ」
臨也は言う。疑わしくて、一度臭いをかいでみたが、なんともない。勘が絶対大丈夫、と太鼓判を押すので、静雄は草履を脱いで居間に上がった。

「夢、月島!」

廊下との扉を開くと、案の定、待ちわびた顔の2匹が行儀よく並んでいた。
静雄が開いた障子の隙間に、するりと月島が滑り込む。後につづいた夢が土間に飛んでいく。
二匹は土間の土の上に行儀よく並んで、静雄を待っていた。
輝かんばかりの目が訴えるのは、静雄の手にある皿への渇望である。
静雄はそれぞれ体に見合った大きさの器を目の前においてやった。
期待の篭った目で、彼らは静雄を見上げる。
間を置いて、静雄は重々しく頷いた。
「めしあがれ」
2匹は、器の中に顔をつっこむようにしてご飯を食べ始める。
気持ちがいいほどの食べっぷりだ。

「犬猫のえさ、手作りしてるんだ?」
居間の隅でその様を眺めていた臨也がいった。声音に驚きが多く含まれていて、静雄は何か恥ずかしい事を見つかった気がしてぶっきらぼうにいう。
「前の飼い主からこうなんだよ」
前の飼い主、つまり静雄の叔父は彼らの健康状態にはひどく気を使っていたらしい。彼ら用の料理のレシピが、居間の箪笥からどっちゃりと出てきた。
「普通、人のご飯が先なのに」
「…この家ではこいつらのが先輩だからな」
静雄は、またたくまになくなる料理をみつめていた。
先に食べ終えた月島が、ごろごろと喉を鳴らして足元にすりついてくる。静雄は微笑みながら、甘えさせてやる。
喉元をなでる手つきは、なれたものだ。
食べ終わった夢が自分もと頭をこすり付けてくるのに、静雄は喉を鳴らして笑う。

「満足したか?」

夢が、静雄の膝にのりあげて、唇をなめた。
「次は俺のばんだ。ちょっと外にでていてくれよな」
静雄がご飯を食べる間は居間の外に出すのだ。以前はあけていたのだが、静雄が食べるご飯を狙って、夢が隣でずっとおすわりをする。心苦しさを覚えてしまい、それ以来食事時は出す事にしているのだ。
夢をおちつくようになで、静雄は立ち上がる。
その様をじっと見ていた臨也と、目が合った。その目が何かをいっている気がして、静雄はすこし身構えた。
「…なんだよ」
「いやに可愛がってるね。その子達、叔父さんの忘れ形見なの?」
静雄は顎を引いて頷いた。
「どっちも棄てられてたのを、拾ってきたらしい」
遺産相続にあたって叔父の弁護士が、教えてくれたのだ。この家を継ぐ人間が現れたら、この子達もできれば可愛がってやって欲しいと。小さな月島の頭が頬にすり寄ってきたのに、静雄は目を細める。
臨也は、ふうん、といった。

「シズちゃんらしくないね」
静雄はその言葉に目を眇める。
「俺らしくない?」
「他意はないよ」
臨也は静かな声で言う。

「ただ、すごく穏やかな顔をしてると思ってね。――まるで別人みたいだ」
俺が知っているのは、眉間に皺を寄せて威嚇する姿だけだから。

臨也はそういってやはり、じっと静雄をみつめるのだ。
瞳は滑らかな湖面のようにも見えたし、その中には何か色々なものが渦巻いているようにも見えた。
その言葉には嘘がないことを静雄は直感で知っていた。
「そうか」
囁くように呟いて、月島の頭に口元を埋めた。
猫の体臭は少ない。陽だまりを抱いているような気がした。
沈黙が耳に痛い。
土間には流しの上にひとつ明かりがついている。けれど土間の全体は暗く、今日のように嵐がくると居間との障子を開け放たなければとても料理など出来ないのだ。
なぜ、自分はこの男を放り出さないのだろう。
疑問がぼこぼこと音を立て始める。
沈黙は疑問の声をより聞こえやすくするだけだ。
静雄はその声を聞くのが、なぜかすこし怖かった。
とうとう沈黙に負けて、静雄は言ったのだ。

「夕食、食ってくか」

臨也は驚いたようだったが、やがて小さく頷いた。










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