ご馳走様でした、と両手を合わせると、静雄は食器を流しに運びに席を立った。
夕食は信じられないほど穏やかに食卓に並べられ、静かに2人の胃袋に消えていった。
メニューは畑で取れたカブとカブの葉の煮込み、キャベツのおひたしと味噌汁、ご飯という質素極まりないものだったが、臨也は文句一つ言わなかった。
平和島家の味付けはいささか薄い。
臨也の椀は綺麗に平らげられていた。

食器を流しにおくと、臨也が廊下にでて行く気配がする。もしかして家に何かするつもりだろうかと背中を追えば、玄関にたどりついた。
明かりのない中、臨也は静雄に気がついて、持っていた靴を左右に振った。
不審げに眉をしかめれば

「手伝うよ」

耳を疑った。
信じがたいが臨也は、土間に下りるための靴を、取りに行ったらしかった。
「おい」
「ご馳走になったんだしね」
臨也は音もなく廊下を渡り、土間に靴を並べた。
流し台の前で袖を折り始めたのを見て、静雄はようやく臨也の側に寄った。
袖を上げ、熱湯と水の栓を同時に捻った。お湯でないと油分は上手く落ちないのだ。
静雄が洗って濯いだのを、臨也が拭いてコップや皿に分けて重ねていく。
静雄は臨也を盗み見た。
臨也の横顔は炊事場の仄明かりに照らされて、静かにそこにある。ものいわぬ百合のようだ。

―――いつ仕掛けてくる気だ?

もう十分、油断した格好はみせたはずだった。
それなのに、なぜまだナイフを取り出さないのか。それどころか、静雄は臨也と会話する驚きに慣れつつある。
この男が、その気になれば、静雄を怒らせない話し方もできるのだと、静雄は気がついた。もうさすがに気がつかざるをえない。臨也は明らかに静雄に気を使って話をしている。

その発見は、青天の霹靂だった。

静雄は糸瓜で箸を洗いながら考えた。
何か企んでいるのだろうが、それが今までとはまるで違うことだけは確かだ。
一枚、一枚、皿を洗うたびに静雄の中で声がちらついた。
――静雄、臨也はね。
穏やかな声、なんと続くはずだったのだろう。

やがてすべての皿を洗い終え、水道をとめる。
すると勝手口から叩きつける雨音が聞こえてきた。気にする暇もなかったが、外は嵐といえるほどの豪雨なのだ。
静雄は知らず目を細めた。

「すげぇ雨」

すると臨也が隣で、そうだねと囁いた。雨音に溶けてしまいそうなほど柔らかな声だ。
これ以上はダメだと、頭の中で誰かが囁いた。
臨也は濡れた手をタオルで拭くと土間をでた。脱いだ靴を拾い上げ、居間にあがる。
ひるがえる黒い浴衣は、揚羽のようで現実感がない。今にも消えてしまいそうに見えた。
息が詰まる心地がした。
静雄の背中に何か、ぞっとした怖気が走る。そのくせに、胸の奥が焦げるほど熱い。

「…かえり、どうするんだよ」

臨也が振り返る。赤い目とかち合うのを避ける。足場を気にするフリをして、草履をぬいだ。
(まて、俺は何を言う気だ)
理性がいう。
寂しさが沈黙した。
「この雨のなか、つり橋渡ったら死ねるぞ」
臨也はほんのすこしだけ、口を噤んだようだった。
自分も口を噤もう。
もう、黙れ。
それなのに、静雄は言ったのだ。
「帰れ、ねぇだろ」
家の周りを取り囲む檻のような、激しい雨の音がした。
――耳のつぶれるような雨音の中、足が畳みをなでる、瑣末な音が耳をうつ。

「…へぇ」

空気が波紋をえがいた。
「それ、もしかして泊まってけって言うお誘いなの?」
冷たい土の香りが鼻腔をさす。
静雄が、はっとして顔を上げた。
音もなく、臨也はいつの間にか目の前に立っていた。
居間に上がったばかりの静雄は、畳に膝をついて臨也を見上げていた。息が止まりそうになる。

――臨也はいつものように口元をゆがめて、笑っていた。

「随分お手軽になっちゃって。シズちゃんたら、さみしかったんだねぇ。可哀相に」

世界から音が途絶え、次には急速に、自分の中で何かが爆発した。
「てめ……っ」
噛み付こうとした静雄の肩を、臨也が蹴りつけた。
バランスの悪い体勢だった静雄は、そのまま土間にしりもちをつく。

(やべぇ)

来る、――。
この男との戦争で培った勘が告げる。腹を、臨也の膝がえぐる。普通なら内蔵に傷がつくが、静雄はわずかに呻き唇を噛み締めただけだ。だが、体が揺らいだところに肩を押されて、静雄は土に頭を打ち付ける。
臨也が静雄の腹の上に馬乗りになった。

(殺す、――)

体を支配していたのは、なじみの怒りではない。
痺れる痛みのようなもの。覚えがあるような気がしたけれど、捨て置いた。いまは思い出している余裕がない。
とりあえず、あごに一発入れる。
心に決めて、静雄はかすんだ目を見開いた。

その瞬間、――呼吸が凍る。

臨也は静雄の襟首をつかみあげて、静雄の顔を覗き込んでいた。
「冗談じゃないよ」
臨也が呟いた。
今にも死に絶えそうな顔色だ。
「人がせっせと積み重ねた15年を、たった数時間で蹴散らしてくれてさ。たまったもんじゃない」
何かを必死に堪えているのだ。唇の端が震えていた。
静雄は目を瞠る。
体中を違和感が這った。それは今日はじめて臨也が口を開いた時に感じたのと同じもののようだった。
襟を握る手は、力が入りすぎて震えていた。
「こっちは玄関先で殴り殺される事まで覚悟してきてんのに、風呂は貸すわ、ご飯は出すわ、終いには泊まれだって?」
「それは…」
「優しかったからだろ?」
冷えた言葉が、静雄の喉下に突きつけられる。
「自分を追ってきたかもしれない人間が、優しくするから。だから君は、俺が折原臨也であることを忘れたかったんだ」
冷えた声に、静雄は息を呑む。
臨也は蔑むような微笑を浮かべた。

「君は俺の事を最悪だって罵るけど、君だってたいしたものだ。この俺に、そういわせるほどにはね」

黒髪の向こうの、赤い目に射すくめられる。静雄は惚けたように、その目をみつめた。
(なんだ…?)
静雄は腹の上にいる人間を見て、ゆっくりと目を瞬いた。
(何が起こってんだ、いったい)
臨也の表情は、噴出すものを表面張力でかろうじて保っているように見えた。
静雄は何度も躊躇って、適当な言葉を見つけられず唇を閉ざす。
臨也は黙ってそれを見ていたけれど、右手をのばして静雄の首筋をなでた。静雄の言葉を捜すみたいに。
臨也の顔から笑みが消え失せた。

「君と言う人間は、そこにいるだけで俺をとことん惨めにする」

臨也の体の中に大きな空ろが出来、そこに冷たい風がふきぬける。擦れた囁き声はその音に似ていた。
臨也は静かに静雄の視線を受け止めていたけれど、やがて深く深く息をつき、こうべを垂れた。

静雄は激しく動揺した。
それは今までみてきたどの臨也とも違う。
とらえどころのない不確かさなどどこにもない。ただどうにもならないものを堪える、必死な姿がある。
――だが、何が臨也を苛んでるのか。
何かをおちつけるように、静雄は大きく胸に息をとりこんだ。

「……おまえ…なんで、ここに来た」

臨也の肩がぴくと跳ねる。
雪崩落ちる髪の隙間から、赤い目が覗いた。疲れた顔をしている。まるで地獄からこちらをみているようだ。
乾いた唇が、震える。
「……みて、わからないの」
「わかんねぇ」
静雄は臨也の目を、じっとみた。
その絶望的に暗い虹彩に、胸の奥が煮えた。
もっと近くでみてみたい。
臨也の顎に手を伸ばし、顔を上げさせた。

「言え」

臨也の頬は、乾いている。
みしらぬ虫を観察する子供のように、ただ臨也の目を見つめた。
やがて臨也は乾いた唇を震わせる。

「…どうしていいか、わからなくて」

――会いに。
ただ、会いにきたと。

そういった臨也の目は、沈んだ深い赤色だ。
その暗い底なしの中に、激しくうねる炎のような色をみた。
様々な色のうねりがぶつかり合って食い合い、痛みの悲鳴をあげている。
臨也が堪えているものの正体に、そのとき静雄は気がついた。

それは痛みだ。

臨也の言葉が鋭いのも当たり前だった。臨也は静雄を責めていたのだから。痛みを与えているのは、静雄だ。
静雄は目を瞠った。
突然だった。胸に落ちるように、理解が降ってきた。

「おまえ」

喉がからからに渇いていた。

「俺から、離れられないのか」

臨也がゆっくりと息を呑んだ。
静雄をつなぎとめたい気持ちと、己の中の劣等感や苛立ちや、果てにうずたかいプライドが、この男の中で食い合っている。目に見えるようだった。

―――その痛みに、臨也はのた打ち回っている。

そのとき静雄の頭の中を、いくつかの見知った顔がよぎった。
それは怪力が生まれた頃はなれていった友達だったり、話してみることもしなかった同級生だったり、不良から助けた際、礼を言いに来た女子生徒でもあった。
皆、わずかにでも手を伸ばせば変わったかもしれない、――どこかでその思いが枯れずに残っている顔ばかりだった。

己の内側が葛藤し続ける苦痛を、誰よりも知っていた。
誰かを欲しがろうとする事、繋ぎとめようとする事、それは静雄にとって常に耐え難い己との戦いだ。
そして、静雄には恐ろしくてついぞできなかったことでもある。友情や愛情だけではない、強い憧れも憎しみも、とにかく人の感情に類する事を、静雄は渇望しながら、一方で避けてきた。

この男は、のた打ち回りながらそれをやりとげようとしている。

気付いた瞬間、静雄の中に生まれたのは、この15年臨也に対して一度も感じたことのない類の感情だった。
それは敗北感にも似ていたし、――尊敬にも、また感謝にも似ている。
そして、いまだかつて感じたことのないどろりとしたものが、地獄の蓋釜をあけて、湧き出した。

「……?」

静雄の手が、臨也の手首をそっとつかんだ。
それをみた臨也は目を瞬く。
静雄は唇をひらいた。
けれどまず、言葉にならなかった。言葉を捜すあいだに、ふと頭の隅で何かが叫ぶ。
この男を許してもいいのかと。こんな体になったのは、もちろん感情を制御できない自分が悪いのだけれど、それでも、確実にここまで深みに落ちたのは、この男のせいなのだよ、と。
静雄は唇をひき結ぶ。
臨也の目の中に、訝しい光が宿る。手首を取り戻そうと、わずかに身じろいだ。
――取り上げられる。
胸の奥が煮える。
ぱっと、はじけるように言葉が浮かんだ。

「ほしい」

放られた言葉は、その場の何とも繋がらず、臨也は一瞬怪訝な顔をした。
当然だろう。
だが、静雄は自分の言葉に戸惑う事はなかった。もう一度訴える。
「おまえを、俺のものにしたい」
一拍置いて、臨也が驚愕の表情になった。
怒涛のような沈黙がおちる。音の世界まで水に沈んだようだ。

「―――ふざけるなよ」

ぞっとするほど低い声だった。
我に返るより先に、襟首を掴む臨也の手が、静雄の首にかかる。
土の上に引き倒されて、首を絞められた。
気道はわずかに狭まるが、保護する筋肉がそれ以上くいこむのを許さない。
喉の奥が、ひゅうと音を立てる。死にはしないが、いささか苦しい。
目をすがめ見上げた先で、臨也がもう一度「ふざけんな…」と呟いた。
「どこまで…人を馬鹿にすれば気が済むんだよ…っ!」
「して、ねぇっ」
静雄が叫び、その瞬間に気道が酷く圧迫され、咳き込んだ。生命の自己防衛反応が、臨也の手を払いのけさせる。
頭がくらくらした。
肺に空気を送るために、喉が焼けるような咳を繰り返す。
静雄はぐったりと土の上で喉を仰け反らせた。
生理的な涙の浮いた目が、さまよって、一人の男をとらえる。臨也は俯いていた。

「…君みたいな酷い男、俺は見たことがない」

酷い言葉だった。けれど、静雄の胸は一向に痛まない。多分、その言葉が真実だと知っているからだろう。

平和島静雄は、世界一の臆病者だ。
静雄はだから、何もいえない。
臨也は力なく首を振ると、額に手をやって髪をかきあげた。

「……それなのに、なんで」

囁くような細い声だ。

「なんで俺は…こんな男ひとり、諦められないで…っ」

泣いているのかと思った。
けれど、顔を上げてこちらをみつめる臨也は、痛みを堪えるように眉根を寄せているだけだ。
どうしていいかわからなくて、静雄は臨也の頬に手を伸ばす。
手は力なく振り払われた。疲れた様に、臨也は呻く。
「…触るな」
静雄は一つ、呼吸をした。
「いや、だ」
臨也がちらと目をあげて、静雄を睨む。敵をみつめるのと同じ視線の鋭さだ。中の柔らかなものを敵意で包んで見えなくしているのだ。
それがほしくて、静雄はもう一度手を伸ばす。
今度は届いた。

頬は温かかった。多分、静雄の指先が冷えたせいだろう。
臨也は、眉根を寄せたまま、片頬だけで笑った。
「――なるほど?人間から逃げ出した臆病者は、もらえるものはクズでも欲しいんだ?」
いっておくけど、と声はひたすらに、固く冷たい。
「俺は優しくするつもりも、慰めてやるつもりも、寄り添ってやるつもりもない。君なんか、愛の端にも引っかからないほど大嫌いだ。傷つけて、ずたずたにして、ボロ雑巾みたいにして、踏みつけてやる」
「いいじゃねぇかそれで」
「は…」
臨也は心底ばかにしきった顔で牙をむいた。
「わからない奴だな…!俺はまともに愛したりしないし、変わらず君の嫌いなクズだし、優しく一緒にいるなんて無理だって言ってんだよ理解しろ!」
「てめぇは何きいてんだ!だから、それでいいって言ってんだろっ!」
ぴた、と臨也は口をつぐんだ。
ただ、目だけがまん丸に見開かれている。
「……いいって」
「おう」
殴る代わりに、静雄は臨也の両頬を掴んで、引き寄せた。
息が触れるほど近くで、睨みつける。

「いっておくが、俺は今でもてめぇにされた色んな事わすれたわけじゃねえ。この十年に関しては、絶っ対、お前が悪い」
静雄はゆっくりと息を吸った。
なれない言葉は、胸をわずかにきしませる。

それでも、言うのだ。

「けど、よ。いま、お前がここまで追いかけてきて、そのせいで苦しんでる。それだけで俺がどれだけ救われたのかとか、いくら感謝してるのか、多分説明したって、お前のことだ。わかんねぇんだろう」
「は…」
「それはもう後々わからせりゃいい話だから、とりあえず割愛する」
「ちょ…」
静雄は少しだけ、言葉を切った。
酷く真剣な顔をした、静雄の目はまっすぐ臨也を射た。

「だから俺は、お前がいま苦しい分だけ、お前を信用できる。そのことだけをお前に言う」

苦しめよ、と静雄は言う。

「苦しんでそれでも俺から離れられないっていうお前の姿が、他のどんな奴の言葉や行動より信用できる」
理屈は至極、利己的だ。最悪なまでに。
それゆえに、ひどくシンプルだった。

「臨也。だから俺は、お前がいい。歪んだ、クズの折原臨也が側にいるのが、いい」

臨也の目が、少しずつ、少しずつ、見開かれた。
小さくなっていく瞳孔は深く深く、何が隠れているのかわからないけれど、瞳の透けるような赤は、美しかった。
やがて、臨也は目を細め、ささやいた。

「俺を、よりにもよって信用するだって?」
「おう」
「自殺行為だよ」
「知ってる」
「カスみたいな手札に有り金全部かけるようなもんだよ?」
「よくわかってるじゃねぇか」

静雄がひくく笑い、目を細めた。
「それでも、俺はお前に賭ける」
臨也がそっと目を瞠る。
睫が綺麗に並んでいるのを、静雄はただみつめていた。
やがて氷が解けるように、臨也がゆっくりと息をついた。

「……ほんと、最低だ」
「そうか」
「逃げ出したくせに、欲しいものだけは手に入れようとするなんて」
「…そう、だな」
「臆病者」

切り込むような言葉だった。
臨也の言葉は、的確に静雄の身を切る。
視線さえも、蔑むような冷たさだった。
その目がふと思案気な色を帯びる。静雄が訝しく思ったときだ。

「…ねえ」
「あ…?」
「俺がここにきたことでわずかばかり俺のことを信じられるようになったって言ったよね」
「……ああ」
他のものではきっと、信じることさえ出来ないのだ。
臨也が、上目で小さく言った。

「なら、さ」
俺にも何か、ちょうだいよ。

静雄は眉をしかめた。
「何か?」
「シズちゃんが、俺を本気で欲がってるっていう証拠がほしい」
臨也の手が、静雄の指先をつかむ。
赤い目が、静雄の目をじっとみつめた。

「だきたい」

きょとん、と静雄は目を瞬いた。
臨也は変化すると知っている顔で、観察するようにみつめていた。
「シズちゃんを、抱きたい」
一拍置いて、静雄は声もなく目を見開いた。
そんな静雄に、臨也は悪魔のように囁いた。

「そうしたら、君に俺をあげる」










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